診察室でもよく聞かれる質問があります。「最近、物を置き忘れることが増えたんです。これって認知症の始まりですか?」結論から言うと、多くの場合、それは認知症ではなく、脳の“注意の使い方”の変化です。今回は、加齢による置き忘れがなぜ起きるのか、そしてどう防げるのかを、脳科学の視点からお話しします。
目次
1.「置き忘れ」と「物忘れ」は違う
まず押さえておきたいのは、「置き忘れ」と「物忘れ」は別物だということです。
たとえば、
- テレビのリモコンをどこに置いたか分からない
- メガネを探していたら頭の上にあった
これは典型的な“置き忘れ”です。つまり、「どこに置いたかという情報」が記憶として残っていない状態です。
一方で、
- 昨日の夕食の内容を思い出せない
- 約束そのものを忘れていた
これは“物忘れ”、すなわち出来事そのものが記憶から抜け落ちています。
この違いは非常に重要です。置き忘れの多くは記憶障害ではなく、「注意が一瞬途切れた」結果にすぎません。
2.注意力の低下=脳のマルチタスク能力の衰え
人間の脳は20代をピークに、少しずつマルチタスク処理能力が低下します。若い頃は「電話をしながら資料を探す」「話を聞きながら片付ける」などが難なくできたのに、年齢を重ねると次第にできなくなる──この変化を多くの方が感じています。
この背景にあるのが前頭葉の働きの低下です。前頭葉は注意の切り替え、判断、感情コントロールなど“実行機能”を担う部分。加齢により代謝が落ち、特に「集中と切り替え」が鈍くなります。
たとえば、出かける前に「鍵を持っていこう」と思った瞬間に電話が鳴る。電話の後で鍵のことをすっかり忘れてしまう──これはまさに加齢性の置き忘れです。
つまり、記憶の障害ではなく注意のスイッチが切り替わらなかっただけなのです。
3.「注意力の筋トレ」で脳は鍛えられる
では、加齢による注意力の低下は防げるのでしょうか。答えは“YES”です。脳には「可塑性(かそせい)」があり、一生を通じて神経回路を鍛えることができます。日常生活の中でできる“注意力トレーニング”を3つ紹介しましょう。
3-1.「ながら」をやめる
年齢を重ねた脳はマルチタスクが苦手です。
「今はこれだけに集中する」と意識するだけでミスや置き忘れは激減します。
3-2.「声に出して確認する」
「財布をバッグに入れた」「電気を消した」と口に出すと、口・耳・脳が連動し、記憶経路が強化されます。音読と同じ仕組みで、驚くほど効果的です。
3-3.「置き場所を固定する」
鍵やメガネの“住所”を決めましょう。「玄関横のトレー」「ダイニング右上」などルール化すれば、脳に“検索作業”をさせずに済みます。
4.認知症による物忘れとの違い
「どこからが認知症なのか?」と不安に思う方も多いでしょう。
判断のポイントは2つです。
4-1.忘れたこと自体を忘れているか
約束を忘れても「そんな約束していない」と否定する場合、記憶の貯蔵機能そのものが低下している可能性があります。
4-2.生活に支障が出ているか
料理・買い物・金銭管理など、日常生活に支障が出るようなら、認知症の可能性を考える必要があります。
一方で、単なる置き忘れの場合、「あ、そうだった!」と思い出す“きっかけ”があればすぐに想起できます。この「ヒントで思い出せるかどうか」が重要な見分け方です。
5.脳科学的に見た「置き忘れ」の本質
最新の脳科学では、置き忘れは記憶障害ではなく、情報の入力ミスと考えられています。つまり、「覚えるスイッチ」が入っていなかっただけ。私たちが何かを記憶するとき、まず“注意”によって情報が扁桃体を経由し、海馬へ送られます。
ところが注意が散漫だと、この経路が作動せず、そもそも記憶として保存されません。「忘れた」のではなく、「最初から記録されていない」──これが置き忘れの正体です。
6.置き忘れを減らす3つの生活習慣
私が患者さんにお勧めしているのは次の3つです。
6-1. 朝のルーティンを固定する
服を着る順番や薬のタイミングを毎日同じにすることで、脳の処理が自動化されます。
6-2.ながらスマホをやめる
スマホ操作は注意を分断し、置き忘れの大きな原因になります。特に会話中や移動中は避けましょう。
6-3.小さな達成感を積み重ねる
料理や掃除、クロスワードなど、計画的に進める作業は前頭葉を活性化します。
7.まとめ
置き忘れが増えるのは、脳が老化したからではなく、情報処理のスタイルが変化したからです。「歳だから仕方ない」と諦める必要はありません。注意力は、意識すれば何歳でも鍛え直せます。今日からできる小さな工夫で、あなたの脳はまだまだ進化できます。「置き忘れ」は老化ではなく、“使い方のクセ”なのです。
もし「最近よく置き忘れる」と感じたら、まずは“注意力の筋トレ”を。
脳の健康は、今日の行動から変えられます。

認知症専門医として毎月1,000人の患者さんを外来診療する長谷川嘉哉。長年の経験と知識、最新の研究結果を元にした「認知症予防」のレポートPDFを無料で差し上げています。