日本人の多くが加入している「生命保険」。これは言うまでもなく、「死」のリスクに備えるための保険商品です。若くして亡くなってしまったとき、残された家族の生活資金を補うために保険金が支払われます。この場合、仮に長生きして保険金を受け取らなかったとしても、「損をした」と考える人はほとんどいません。それは、保険が「万一」のリスクに備えるものであると、誰もが理解しているからです。
一方で、「老齢年金」はまったく別の性質を持つ仕組みです。これは「長生きするリスク」への備えです。意外に思われるかもしれませんが、長生きは必ずしも“幸運”とは限りません。年を重ねるごとに、働く能力は衰え、医療や介護の負担が増し、資金面でも精神面でも厳しさが増すことがあるからです。私は認知症の専門医として、またファイナンシャル・プランナー(FP)として、日々患者さんとそのご家族の生活を見つめていますが、「長生きによる経済的困窮」がもたらす悲劇を数多く見てきました。
目次
1.長生きのリスクは見えにくいが、確実に存在する
多くの方が、「年金は早くもらわないと損する」と考えがちです。65歳で受け取る権利が発生するため、「早く受給して自分の元に戻したほうがいい」と思う気持ちは自然なものです。しかし、ここに大きな落とし穴があります。
日本人の平均寿命は年々延びており、男性で82歳、女性では88歳を超えています。さらに、実際に要介護となる人の多くが80歳以降に集中しています。つまり、「年金が必要になる本番」はむしろ70代後半から80代以降なのです。65歳時点ではまだ体力もあり、働ける人も多く、年金に頼らなくても生活が可能なケースも少なくありません。ですが、その後に訪れる本当の老後にこそ、安定した収入源があるかどうかが問われるのです。
2.年金を繰り下げると、最大1.4倍まで増やせる
公的年金制度では、65歳からの受給開始を基本としながら、受給開始を最大70歳まで繰り下げることができます。これによって年金額は1カ月繰り下げるごとに0.7%増加し、5年間繰り下げると42%の増額になります。
たとえば、65歳で月15万円の年金を受け取れる人が、70歳まで繰り下げた場合、月21万3,000円(=15万円×1.42)になります。これは単なる「得」ではなく、長生きした際の生活の安定に直結する強力な資金源となります。
この増額された年金は、生涯にわたって続きます。仮に90歳、100歳まで生きた場合、累計受給額は65歳からもらうよりも大きくなります。つまり、長生きすればするほど繰り下げのメリットは大きくなるのです。
3.「早く亡くなったら損?」──その考え方こそがリスク
「でも、70歳まで繰り下げたのに、68歳で亡くなったら損じゃないか?」こうした不安を感じる方も多いでしょう。しかし、生命保険と同じように考えてみてください。生命保険も、亡くならなければ保険金はもらえません。それでも誰も「損した」とは言いません。それは、大きな不幸(=突然の死)を回避できたこと自体が“得”だったと考えるからです。
同じように、年金の繰り下げも「長生きというリスクへの備え」です。もし、早く亡くなって繰り下げた年金をあまり受け取れなかったとしても、それはお金のない晩年を避けられたという意味で、尊厳ある人生の幕引きを実現できたとも言えるのではないでしょうか。「損か得か」で語る前に、「人生の最期をどう過ごすか」という観点で考えることが、より現実的な視点です。
4.65歳時点で十分な年金があるなら無理に繰り下げなくてもいい
もちろん、すべての人に繰り下げ受給を勧めるわけではありません。65歳時点で十分な年金(月額20万円以上など)を受け取れる方は、それで老後の生活が安定するのであれば、あえて繰り下げる必要はないでしょう。
また、持ち家があり、生活コストが比較的低い方や、退職金・貯蓄がしっかりある方は、65歳受給でも十分に安心な老後を送ることが可能です。重要なのは、自分の年金額・資産・支出を冷静に把握したうえで判断することです。
5.65歳時点で年金が足りないなら「70歳まで働く」ことも選択肢に
一方で、65歳時点での年金額が少ない(たとえば月10万円前後)場合や、生活費や住宅ローンなどが残っている場合は、年金の繰り下げを真剣に検討すべきです。そして、繰り下げ期間の生活費をどう賄うかという点で重要になるのが、「70歳まで働く」という選択肢です。近年では、健康寿命の延伸や社会制度の整備もあり、65歳以降も働ける環境が増えています。パートタイムや再雇用、フリーランス、副業など、さまざまな働き方が可能になりました。この「70歳まで働くこと」には、以下のようなメリットがあります:
- 生活資金を確保でき、年金を繰り下げる余裕が生まれる
- 脳や身体を使い続けることで、健康維持につながる
- 社会とのつながりを維持し、孤立を防げる
- 生きがいや役割意識が保たれ、メンタル面でも良い効果がある
とくに認知症の予防という観点から見ても、「働くこと」は非常に大きな意味を持ちます。社会的交流、役割意識、日常のルーティンなどが脳への刺激となり、老化の進行を遅らせることがわかっています。
6.まとめ:人生の最期を見据えた「資金戦略」としての繰り下げ受給
高齢期の人生設計には、医療・介護・生活費など、多くの不安材料がつきまといます。その中でも、「お金があるかどうか」は生活の質を大きく左右します。そして、年金はその柱となる「唯一の終身収入」です。
私のような医療者としての視点と、ファイナンシャル・プランナーとしての視点を合わせて言えるのは以下の通りです。
- 長生きするリスクは現実に存在し、その対策として繰り下げ受給は非常に有効
- 早く亡くなることを心配して繰り下げを避けるのではなく、「長く生きたときに困らない備え」として捉える
- 65歳で年金が十分な方は焦る必要はないが、不十分な方は「働く+繰り下げ」で備えることができる
- 働くことは経済的メリットだけでなく、健康維持・社会参加という面でも価値が高い
老後の人生は、「備え」がすべてです。そして、その備えの中核となるのが、どう年金と向き合うかという選択です。ぜひ、ご自身の状況を冷静に見つめ直し、悔いのない判断をしていただきたいと思います。

認知症専門医として毎月1,000人の患者さんを外来診療する長谷川嘉哉。長年の経験と知識、最新の研究結果を元にした「認知症予防」のレポートPDFを無料で差し上げています。