契約できないのに、投票はできる?

契約できないのに、投票はできる?

認知症外来を続けていると、選挙の時期になるたびに、ある問いを受けることがあります。

「先生、母も投票に連れて行った方がいいでしょうか?」

家族は少し迷いながら、そう尋ねてきます。

患者さんの中には、政党名を書くことができない方もいます。候補者の違いが理解できない方もいます。そもそも今日が何月何日か分からない方もいます。成年後見人がついていて、契約能力がないと判断されている方もいます。

それでも――
日本では、認知症であっても原則として投票権は失われません。

目次

1. 認知症でも失われない「参政権」

これは意外に思われる方もいるかもしれません。しかし現行制度は明確です。参政権は「能力」に基づく権利ではなく、「国民である」という事実そのものに基づく権利とされています。日本国憲法第15条がその根拠です。

かつては、成年後見制度を利用すると選挙権を失う時代がありました。しかし2013年、公職選挙法が改正され、成年被後見人も投票できるようになりました。

この改正の背景には、

  • 障害や判断力の低下を理由に参政権を奪うのは差別ではないか

  • 主権者としての権利は平等に保障されるべきではないか

という議論があります。さらに国際的にも、障害者権利条約の流れの中で、障害の有無にかかわらず参政権を保障する考え方が主流になっています。つまり社会は、こう決断しているのです。判断能力が低下しても、主権者であることに変わりはない。

2. 臨床の現場で感じる「違和感」

しかし、ここに臨床の現場とのギャップがあります。

例えば、MMSEが15点前後。娘の名前を間違え、新聞の内容も保持できない。政治制度を説明しても理解が続かない。その方が投票所に行き、周囲に促されながら投票用紙に何かを書く。その姿を見たとき、医療者として、あるいは家族として、次のような疑問を感じるのは自然ではないでしょうか。

  • 契約能力はないのに、政治的意思決定はできるのか

  • それは本当に本人の意思なのか

  • 誘導になっていないのか

これは決して差別意識ではありません。むしろ、本人の尊厳を守りたいからこそ生まれる問いでもあります。

3. 「契約能力」と「投票能力」は別のもの

法律上、契約能力と投票能力は別のものとして整理されています。契約は私的な法律行為であり、財産に直接影響します。一方、投票は主権者としての公的な意思表示です。成年後見制度はあくまで財産保護のための制度であり、政治的権利を奪う制度ではない――これが現在の法的な立場です。

4 では「投票能力」を審査すればよいのか

ここで、ひとつの考えが浮かびます。「投票能力を個別に審査すればよいのではないか」しかし、この考え方には大きな問題があります。誰がその線を引くのかという問題です。

医師でしょうか。
裁判所でしょうか。
行政でしょうか。


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もし医療者が「この人は投票できる」「この人はできない」と判定する社会になったとしたら、それは極めて危うい構造になります。歴史を振り返れば、「能力」や「適性」を理由に権利が制限された例は数多くあります。能力による線引きは、常に政治的に利用される危険を含んでいるのです。

5. 認知症は「線を引けない病気」

さらに言えば、認知症は連続体です。軽度認知障害から重度まで、明確な境界線はありません。医学的に「ここからは投票不可」と客観的に決めることは、実際には極めて困難です。だからこそ、日本はある意味で大胆な選択をしています。

線を引かない。

能力審査を行わず、原則として参政権を保障する。
これは、不完全さを受け入れる決断でもあります。

6. 社会が模索しているのは「制限」ではなく「支援」

もちろん問題がないわけではありません。施設での不在者投票や代理記載制度では、誘導や影響力の問題が完全にゼロになるわけではありません。だからこそ、慎重な運用が求められます。現在、社会が模索しているのは「制限」ではなく「支援」です。

例えば、

  • 分かりやすい選挙公報

  • 写真や図の活用

  • ゆっくり説明できる環境整備

といった取り組みです。奪うのではなく、支える。排除するのではなく、包摂する。これが現代民主主義の方向性です。

7. 医師としてどう向き合うべきか

では、医師としてこの問題にどう向き合うべきでしょうか。私は、医師が投票の可否を判定すべきではないと考えています。しかし同時に、患者さんの尊厳を守る責任はあります。投票に行きたいという意思があるなら、それを尊重する。
理解が難しい場合には、家族に制度の現実を説明する。

そして何より、

認知症になっても社会の一員であるという感覚を失わせないこと。それが重要だと思っています。

8. これは「未来の自分」の問題でもある

もし私たち自身が将来認知症になったとき、「あなたはもう判断できないから、選ぶ権利もありません」そう言われたら、どう感じるでしょうか。民主主義とは、効率的で合理的な制度ではありません。ときに非効率で、曖昧で、不完全です。しかしその根底には、「存在している限り尊重される」という思想があります。

契約できないのに、投票はできる。この構造に違和感を覚えることは自然です。けれどその違和感の先にあるのは、社会がどこまで弱い立場の人を包み込むのかという問いなのかもしれません。認知症と参政権の問題は、決して他人事ではありません。それは、私たち自身の未来の姿を映す鏡でもあるのです。

皆さんは、どう考えるでしょうか。

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