原田ひ香さんの小説『老人ホテル』を拝読し、認知症専門医として、そして一人の人間として、深い感銘を受けました。本書は、ただの高齢者施設を舞台にしたフィクションにとどまらず、「老いること」そのものの現実に対する誠実なまなざしと、多様な老後のかたちを描き出す優れた社会小説であると感じました。
物語の舞台である「老人ホテル」は、高齢者たちが共同生活を送る簡易宿泊所のような存在です。そこには、経済的に恵まれていない、あるいはさまざまな事情で家族との同居や一般的な介護施設を選ばなかった高齢者たちが集まっています。認知症を抱える人、身体に障がいを持つ人、孤独を抱える人、さまざまな背景を持つ「老人たち」が織り成す人間模様が、温かさとユーモアを交えて描かれており、ページをめくる手が止まりませんでした。
専門医として日々高齢者の診察にあたる中で、「老い」は一様ではないという事実を強く実感しています。それぞれの人生に積み重ねられた時間が、老い方に色濃く反映される。『老人ホテル』ではまさに、その「多様な老いのかたち」が見事に表現されており、登場人物たちが画一的な「お年寄り」ではなく、ひとりひとりが豊かな個性と背景を持った存在として立ち上がっていました。これは、小説としての技術の高さに加えて、原田さんの観察眼と人間への深い理解の賜物だと思います。
また、本書を通じて改めて強く感じたのは、「老後にもお金が必要だ」という冷厳な現実です。これは医療や介護の現場でも日々直面する課題であり、どれほど支援制度が整っていても、経済的な不安は本人の尊厳や生活の質に大きく影響します。「自由に生きるには、老後も金が要る」。この言葉は、作品内で老人たちが若者に向けて伝える「人生の知恵」として登場しますが、現代を生きる私たちへの警鐘でもあると感じました。
印象的だったのは、彼らが若者に向けて「固定費を減らせ」とアドバイスする場面です。これは単なる節約術ではなく、これからの人生をより柔軟に、自由に生き抜くための戦略でもあります。固定費が少なければ、収入が減っても選択肢を持てる。住む場所、働き方、人との距離の取り方、どれも「金銭的余裕」があってこそ選べる自由なのです。年老いた彼らが、豊かとは言えない暮らしの中で得たその教訓は、普遍的な知恵として私たち若い世代にも受け継がれるべきものだと感じました。
医師としての立場から本書を読んだとき、もうひとつ重要なテーマが浮かび上がりました。それは「居場所」の問題です。認知症を患った方々の中には、家族からの理解が得られず、施設や病院でも孤立を深めるケースがあります。しかし『老人ホテル』では、たとえ完全な理解がなくても、そこで暮らす人々が互いに支え合い、緩やかなつながりの中で共に生きていく姿が描かれており、「こういう場所が本当にあれば」と何度も思わされました。医療や介護の枠を超えた、人と人との自然な関係性こそが、高齢者にとっての心のよりどころになるのではないでしょうか。
さらに、原田さんの筆致には「老い」を必要以上に悲惨にも美化もしない、絶妙なバランス感覚があります。笑いと涙、孤独と温もり、そして厳しさと優しさが同居するこの作品は、「老い」という人生の終盤を、ただ「看取る」だけでなく、「どう生きるか」を考えるための貴重なヒントを与えてくれました。
『老人ホテル』は、専門家としてだけでなく、いずれ老いていくひとりの人間としても、深く心に残る作品でした。高齢化が加速する日本社会において、本作のように、老いと向き合うことの大切さをユーモアとリアリティをもって伝える文学作品は、今後ますます必要とされていくでしょう。そして私自身も、日々の診療の中で「多様な老い」に寄り添い、それぞれの人生が最後までその人らしく輝けるよう、努めていきたいと強く感じました。


認知症専門医として毎月1,000人の患者さんを外来診療する長谷川嘉哉。長年の経験と知識、最新の研究結果を元にした「認知症予防」のレポートPDFを無料で差し上げています。