2025年、またひとつ痛ましい事故が報道されました。70代の男性が運転中に意識を失い、幼い子どもが亡くなったというニュースです。原因は、不整脈による一過性の意識消失。いくら本人が「元気」と言っていても、身体は確実に変化しています。高齢者ドライバーのリスクを「認知症」に限定して語る時代は、もはや終わりにしなければなりません。今回の記事では、以下の3点を中心に、「運転をやめるべきサイン」とその理由をお伝えします。
目次
1.不整脈「突然意識を失う」人は、ハンドルを握ってはいけない
不整脈と聞くと、「脈が飛ぶ」「動悸がする」などの軽微な症状を思い浮かべる方も多いでしょう。しかし、高齢者に多い「心房細動」や「房室ブロック」などの不整脈の一部は、突然の意識消失を引き起こすことがあります。これを「失神性不整脈」と呼びます。
問題は、その発作が「前触れなく起こる」ことです。運転中に発作が起これば、ブレーキを踏むどころか、ハンドルの操作すらできません。そのまま対向車線にはみ出す、歩道に突っ込む――命にかかわる大事故につながります。
本人が自覚していないケースもあり、「何か変だな」と思ったときには既に危険水域に達している可能性があります。不整脈の診断がついた段階で、まず運転の継続については医師と真剣に向き合うべきです。たとえペースメーカーで制御できるとしても、完全に安全が担保されるわけではありません。
2.難聴─「聞こえない」は「見えない」と同じぐらい危険
意外と見落とされがちなのが、聴覚の低下です。運転中の判断には「視覚」が大きな役割を果たしますが、実は「聴覚」も同じくらい重要です。後方からの車の接近、救急車やパトカーのサイレン、クラクション、さらにはエンジンやブレーキの異音など、運転中には耳からの情報が非常に多く入ってきます。
難聴になると、これらの音が聞こえなくなり、注意力が著しく低下します。特に補聴器をしていない、あるいは装着していても適切に調整されていないケースでは、周囲の状況に対する反応が遅れ、事故を誘発するリスクが格段に高まります。
また、後部座席の同乗者の声も届かないため、注意喚起が無視されたり、意思疎通がうまくできずにトラブルになることもあります。
3.運動機能障害─「杖なしでは歩けない」人に運転は無理
もうひとつ重要な視点が、身体機能の低下です。杖を使わないと歩けない人が、ブレーキとアクセルを的確に踏み分けられるでしょうか? 事故を起こした際、ハンドルを切って咄嗟に回避行動をとれるでしょうか?
運転は、単に座って操作するだけの作業ではありません。瞬時の判断、反射的な動作、そして状況に応じた対応力が求められます。ところが、高齢になるとこれらの運動機能が低下し、緊急時の対応が遅れがちになります。
事故が起きた後の「責任」を果たすためにも、最低限、自分の身体で検証できるだけの機能は必要です。杖なしでの歩行が難しいという状況は、「自動車の操作にも問題があるかもしれない」という重大なサインなのです。
4.高齢者の「運転をやめる決断」は、尊厳を守る選択でもある
運転免許の自主返納については、本人の「プライド」や「生活の不便さ」など、感情的な問題がつきまといます。しかし、家族の命、他人の命を危険にさらす可能性がある以上、その「自由」は無条件に守られるべきものではありません。不整脈、難聴、運動障害――いずれも、日常生活ではまだ「なんとかなる」レベルかもしれません。しかし、車の運転という“瞬間判断”の連続の中では、「なんとかならない」ことの方が多いのです。
事故が起きてからでは遅いのです。「あのとき、やめておけばよかった」と悔やむことのないよう、自分自身の状態を正しく評価し、医師や家族としっかり話し合う。それこそが、本当の意味で“自分らしく生きる”ことではないでしょうか。
5.最後に:社会全体で「運転卒業」をサポートする仕組みを
高齢者が安心して車を手放すためには、社会の理解と支援が不可欠です。バスの増便、買い物支援、タクシー券の補助など、移動手段の確保こそが「卒業支援」につながります。運転をやめるのは「衰えの象徴」ではなく、「成熟した決断」です。
そして私たち医療者・介護者・家族もまた、尊厳ある“引退”のサポート役でありたいと願っています。