近年、アルツハイマー型認知症に対する画期的な新薬として注目されている「レカネマブ(商品名:レケンビ)」が国内でも承認され、2023年より保険適用となりました。早期のアルツハイマー型認知症において、アミロイドβを標的とし、病態の進行を緩やかにする可能性がある治療薬です。
一方で、このレカネマブの投与対象となる患者に対して、精神障害者保健福祉手帳(以下、精神障害者手帳)を取得するよう勧める医療機関があるという事例が出ています。目的は、医療費の自己負担を軽減することです。手帳を取得すれば、自立支援医療などの公的支援を受けられるため、レカネマブのように高額な治療の経済的負担を減らす効果があるのは事実です。
しかしながら、レカネマブの適応基準と精神障害者手帳の要件を照らし合わせると、根本的な矛盾があることに気づかされます。
目次
1.レカネマブの適応 —— 「軽度」のアルツハイマー型認知症
まず、レカネマブの投与対象は、軽度認知障害(MCI)または軽度のアルツハイマー型認知症の患者です。つまり、症状が進行する前の早期段階にあり、日常生活の自立度が比較的高い人が対象となります。現時点で重度の認知機能障害が見られる患者は、投与の適応外です。
レカネマブの臨床試験(CLARITY AD試験)でも、自立した生活を送ることができ、一定の判断力や認知機能が保たれていることが前提条件でした。
2.精神障害者手帳の交付基準 —— 「長期かつ著しい制限」が必要
一方で、精神障害者手帳の交付には、以下のような条件が求められます:
- 精神疾患(統合失調症、うつ病、認知症など)により
- 長期間(6か月以上)
- 日常生活や社会生活に著しい制限があること
つまり、認知症において精神障害者手帳が交付されるのは、進行期以降で生活支援が必要なレベルの人が対象となるのが原則です。軽度の認知症やMCIでは、原則的に交付の対象になりません。
3.矛盾点:同一人物が「軽度」と「重度」を同時に満たせるのか?
ここで大きな矛盾が生まれます。
- レカネマブを投与するには、**軽度認知症であること(=日常生活がほぼ自立していること)**が求められる
- 一方で、精神障害者手帳を取得するには、**日常生活に著しい支障があること(=中等度以上)**が必要
つまり、同一人物が同時にこの両方の条件を満たすことは、本来制度的にも医学的にも成り立ちません。
4. 医療費助成を目的とした「手帳取得のすすめ」のリスク
一部の病院や医師が、患者や家族に対して「レカネマブは高額だから、精神障害者手帳を取って医療費を無料にしましょう」と勧めているという事例は、善意からの提案であるかもしれません。しかし、それが制度の趣旨を逸脱する行為である可能性は否定できません。手帳の取得は、あくまで本人の障害状態に基づいて行われるべきであり、「経済的理由」だけを主な動機とすることには、以下のような問題点があります:
- 本人の尊厳や社会的評価に影響を与える可能性がある
- 本来の重度精神障害者の支援リソースを圧迫する
- 制度運用の信頼性を損なう
- 不正受給と判断されるリスク(将来的な監査や返還命令)
5.本当に必要な支援のあり方とは
レカネマブは、今後の認知症医療に大きな変革をもたらす可能性を秘めた薬剤です。しかし、これに伴う医療費負担の増加は、患者や家族にとって深刻な問題です。そうした負担を軽減するためには、本来の制度に沿った以下のような対応が求められます:
- 高額療養費制度の活用
- 自立支援医療の正当な利用(対象となる場合)
- 地域包括支援センターやソーシャルワーカーとの連携
- 政策的な公的補助や医療費助成制度の整備
6.まとめ
レカネマブのような新薬が登場し、認知症の治療に希望が持てるようになった反面、制度上の矛盾が浮き彫りになっています。精神障害者手帳の制度は、本来、長期にわたる生活支援を必要とする精神疾患のある人のための仕組みです。レカネマブの適応患者である軽度認知症の人が、この制度を利用することには、本質的な矛盾があります。医療や支援の現場では、制度の目的と患者の実情を正しく見極め、本当に必要な人に、必要な支援が届く社会の構築が求められています。

認知症専門医として毎月1,000人の患者さんを外来診療する長谷川嘉哉。長年の経験と知識、最新の研究結果を元にした「認知症予防」のレポートPDFを無料で差し上げています。