村上春樹さんの『夏帆―The Tale of KAHO―』を読みました。正直に告白すると、途中で読むのをやめようかと思いました。シロアリが出てきて、さらにアリクイまで登場する。「いったい、この話はどこへ向かうのだろう」。物語についていけなくなりそうだったのです。
それでも読み進めているうちに、先が気になり、最後まで読んでしまいました。読み終えての感想は、「何かを学べた」というよりも、「不思議な物語を楽しめた」というものです。もちろん、心に残った言葉はいくつもあります。ただ、それらを人生の教訓として整理するより、奇妙な世界を主人公と一緒に歩いてきた感覚が残りました。今回は、そんな読書の途中で共感したことを書いてみます。
目次
1.シロアリとアリクイに戸惑いながらも、先を読みたくなる
小説を読んでいると、登場する出来事の意味を考えてしまいます。「これは何を象徴しているのだろう」「この場面は、後でどうつながるのだろう」。とりわけ現実離れした展開になると、納得できる説明を探したくなります。
今回も、シロアリやアリクイが現れたときには、戸惑いました。現実の感覚で考えれば、簡単には受け入れられない世界です。しかし、その都度立ち止まって意味を求めていたら、読み進めることはできなかったかもしれません。ひとまず、その世界ではそういうことが起こるのだと受け止める。すると、「なぜアリクイなのか」よりも、「この先、夏帆はどうなるのか」が気になってきました。
作中には、物語に有用性や実益を求めることを考えさせるくだりがあります。ここは、今回の自分の読後感と重なりました。日頃の私は、本を読むときにも、何か仕事や生活に生かせるものを探しがちです。知識が増えた、考えが整理された。それは確かに読書の喜びでしょう。でも、先が気になってページをめくり、最後まで楽しめた。それだけでも、十分に本を読んだ価値はあるのだと思います。
2.好きになれない気持ちまで、無理に変えなくていい
心に残ったのは、母親との関係をめぐる場面です。夏帆は母親から、自分自身を十分に認めてもらえているとは感じられません。母親の期待に沿えなかった娘として見られ、その評価は簡単には変わらない。親子だからこそ、そうしたまなざしは重くのしかかるのでしょう。
そこで印象に残ったのが、好きになれないものを無理に好きになる必要はない、という趣旨の言葉でした。親なのだから大切に思うべきだ。家族なのだから仲良くしなければならない。そう考えるほど、気持ちがついてこない自分を責めてしまうことがあります。しかし、感情は正論だけでは動きません。相手を好きになることと、その相手にどう向き合うかは、分けて考えてもよいのだと思いました。
診療の場でも、親を心配しながら、同時に長年のわだかまりを抱えているご家族に出会います。心配する気持ちも、距離を置きたい気持ちも、その人の中に一緒にある。それは矛盾というより、人間関係の自然な姿なのかもしれません。また、親には子供の知らない人生があり、知らない顔があります。親子だから何でもわかるわけではない。その距離を認めることで、少し楽になる関係もあるのではないでしょうか。
3.英雄になりたいわけではないのに、試練はやってくる
もう一つ、強く共感したのは、英雄になろうとしていない人にも厳しい試練が訪れる、という夏帆の思いです。物語では、主人公が困難を乗り越え、成長する姿が描かれます。読んでいる側も、その展開に心を動かされます。
けれども、現実に困難のただ中にいる人は、成長したくて苦労しているわけではありません。病気も、介護も、家族の問題も、できることなら起きてほしくなかったはずです。「この経験が、あなたを強くする」と言われても、「強くならなくていいから、穏やかに暮らしたかった」と思うこともあるでしょう。夏帆の思いには、そうした普通の人の率直な気持ちを感じました。
原因と結果が釣り合わないとき、人は深く混乱する、という趣旨の言葉も印象的でした。努力したのに報われない。気をつけていたのに病気になる。善意で動いたのに関係がこじれる。私たちが苦しむのは、出来事そのものに加え、「どうしてこうなったのか」と納得できないからでもあるのでしょう。それでも、自分のもとに来たものをすべて受け入れる必要はない。何を受け入れ、何から離れるかを選ぶことはできる。夏帆の物語を追いながら、そのことが静かに心に残りました。
おわりに
シロアリとアリクイが登場したときには、途中で本を閉じかけました。それでも最後まで読んでみると、奇妙な出来事の間に、人間関係や人生について共感できる言葉が散りばめられていました。ただ、それを一つの明快な教訓にまとめる必要はないのでしょう。
戸惑いながら読み進め、気になる言葉に立ち止まり、結局は最後まで楽しんだ。私にとって『夏帆―The Tale of KAHO―』は、そんな一冊でした。読み終えた本に「何の役に立ったか」と答えを出さず、「面白い時間だった」と本棚に戻す。たまには、そういう読書もよいものです。


認知症専門医として毎月1,000人の患者さんを外来診療する長谷川嘉哉。長年の経験と知識、最新の研究結果を元にした「認知症予防」のレポートPDFを無料で差し上げています。