認知症外来をしていると、思わず笑ってしまうような場面に出会うことがあります。しかし、その笑いの裏には、ご家族の大変な苦労が隠れています。
すると、隣に座っていたご主人が、実に不思議そうな顔でこう言われたのです。「えっ?何のストレスがあるの?」私は一瞬、言葉を失いました。すると奥様が、間髪入れずに言われました。「あなたがストレスの元です!」
思わず診察室に笑いが起こりました。ところが、ご主人はきょとんとしています。まったく悪気がないのです。私は、この何気ない夫婦のやり取りに、認知症介護の本質が表れていると感じました。なぜ、これほど家族が苦労しているのに、本人には伝わらないのでしょうか。今回は、認知症になるとなぜ理屈が通じにくくなるのか、そして介護する家族はどうすればよいのかをお伝えします。
目次
第1章 猛暑でも畑に行く!本人には危険が分からない
このご主人は、まだ認知症ではなくMCIの段階です。しかし、奥様が困っているのは、記憶力の低下だけではありません。例えば、真夏の猛暑日。気温が35度を超えているような日でも、ご主人は平然と言います。「ちょっと畑に行ってくる」奥様は慌てて止めます。「今日は危ないからやめて。熱中症になってしまうわよ」すると、ご主人は怒り出します。「何を言っているんだ。そんなことで倒れるような年じゃない!」
確かに、若い頃は炎天下でも元気に畑仕事をされていたのでしょう。しかし、今は年齢を重ね、体力も暑さへの適応力も変化しています。ところが、ご主人の中では、昔の元気だった自分のイメージが残っているのです。
さらに、病院や買い物に出かけても問題が起こります。少し待たされただけで、「まだなのか!」「もう帰る!」と怒り始めるのです。奥様が「もう少しだから待って」と説明しても、なかなか納得してくれません。
認知機能が低下すると、状況を理解する力、先の危険を予測する力、感情を抑える力などが弱くなる場合があります。もちろん、MCIの方が皆さんこうなるわけではありません。しかし、記憶力以外の認知機能にも変化が現れることはあります。本人にとっては、自分の行動が当然のこと。家族にとっては、危険で心配なこと。この認識の違いが、毎日のように衝突を生んでしまうのです。
第2章 家族は正しいことを言っているのに、なぜ伝わらない?
奥様は、転倒を予防するため、自宅の段差をなくしたり、手すりを取り付けたりすることを提案しました。ところが、ご主人は猛反対です。「そんなものはいらない!」「俺を年寄り扱いするな!」
奥様からすれば、理解できません。転倒して骨折でもしたら大変です。だから、今のうちに安全な住環境を整えておこうというのです。医学的にも、転倒を予防するための環境整備は大切です。
しかし、ご主人には伝わりません。ここに、認知症介護の難しさがあります。家族は未来の危険を考えています。しかし本人は、今の自分は大丈夫だと思っています。家族が正しいことを説明すればするほど、本人には「自分の能力を否定された」「自由を奪われる」と感じられる場合があるのです。
私は認知症外来で、ご家族によくこうお伝えします。「正しいことを説明すれば、必ず納得してくれると思わないでください」これは、本人が単に頑固になったという話ではありません。認知機能の低下によって、自分の変化に気づきにくくなったり、相手の立場で考えることが難しくなったりする場合があるからです。
では、どうすればよいのでしょうか。例えば、手すりを取り付けるときも、「あなたは転びやすくなったから必要なのよ」と言うのではなく、「私も最近、階段が怖くなってきたから、一緒に使えるようにしたいの」と伝えてみる。
畑仕事も、頭ごなしに禁止するのではなく、「今日は暑いから、夕方涼しくなってから一緒に行きましょう」と提案する。
もちろん、これですべて解決するわけではありません。それでも、相手を説得することより、相手の気持ちを傷つけずに安全を守ることを意識するだけで、衝突を減らせる場合があります。認知症介護では、正論が必ずしも正解ではないのです。
第3章 一番心配なのは、介護している奥様の体です
今回の診察で、私が最も気になったのは、ご主人の認知機能以上に、奥様の健康状態でした。「あなたがストレスの元です!」そう言って笑っておられましたが、その言葉には長年の疲れがにじんでいました。毎日、同じことを説明する。危険な行動を止める。怒られても我慢する。外出先では周囲に気を遣う。
そして、何か問題が起きれば、結局すべて自分が対応しなければならない。そんな生活が続けば、心も体も疲れて当然です。帯状疱疹は、水痘・帯状疱疹ウイルスが再活性化することで発症します。加齢による免疫機能の低下に加え、疲労やストレスなども発症に関係すると考えられています。
今回の帯状疱疹が介護ストレスだけで起きたとは断定できません。しかし、奥様の疲れを見過ごしてはいけないと感じました。さらに切ないのは、ご主人が奥様の苦労を十分に理解できていないことです。「何のストレスがあるの?」
この一言に、奥様はどれほど複雑な思いをされたでしょうか。介護をしていると、感謝されないこと以上に、自分の苦労そのものが相手に伝わらないことがつらいのです。だからこそ、私はご家族にお伝えしています。「患者さんを守ることも大切ですが、まず自分自身を守ってください」デイサービスを利用する。ショートステイを活用する。家族や周囲の人に協力を求める。MCIの段階であっても、必要に応じて地域包括支援センターなどに相談することができます。
介護サービスを利用することは、決して手抜きではありません。むしろ、介護を長く続けるために必要な工夫です。患者さんの認知機能ばかりに目を向けていると、介護している家族の心身の不調を見逃してしまいます。私は、そこに十分注意する必要があると思っています。
おわりに 理屈で勝とうとしないでください
「あなたがストレスの元です!」奥様のこの一言は、何とも見事でした。ご主人は最後まで不思議そうな顔をされていましたが、診察室には少し温かな笑いが残りました。しかし、私が皆さんに知っていただきたいのは、認知症介護における夫婦のすれ違いは、単なる性格の問題ではないということです。認知機能が低下すると、本人が自分の変化に気づきにくくなり、家族の心配や苦労を理解できなくなる場合があります。その一方で、家族は毎日の苦労をすべて覚えています。本人は忘れても、家族の疲労は積み重なっていくのです。
だから私は、介護しているご家族にこうお伝えしたいと思います。「理屈で勝とうとしないでください。そして、我慢することを介護の目標にしないでください」認知症の方を大切にすることと、介護する自分を大切にすることは、決して矛盾しません。奥様が頑張りすぎる必要などないのです。認知症介護で大切なのは、本人だけでなく、支える家族も元気でいられること。介護者の健康を守ることも、認知症診療の大切な仕事なのです。
認知症専門医として毎月1,000人の患者さんを外来診療する長谷川嘉哉。長年の経験と知識、最新の研究結果を元にした「認知症予防」のレポートPDFを無料で差し上げています。
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