凪良ゆうさんの『多類婚姻譚』を読みました。本作は、結婚をテーマにした連作短編集です。同性の恋人、結婚を望む独身女性、離婚を経験した人、家事や育児の分担に悩む男女など、さまざまな立場から「誰かと一緒に生きること」が描かれています。
セクシュアリティ、ジェンダー、金銭感覚、世代間格差、育った家庭環境。現代の結婚を難しくしている価値観の違いを、どちらか一方を単純な善悪に分けることなく描いた作品です。読んでいて何度も感じたのは、私たちは本当に結婚したいのだろうか、という疑問でした。結婚そのものが欲しいのではなく、孤独になったときに助けてくれる人や、病気になったときにそばにいてくれる人が欲しいのではないでしょうか。
目次
第1章 結婚しなければ合格点をもらえない社会
特に共感したのが、どれだけ社会人として頑張っても、結婚という一点をクリアしなければ、親から永遠に合格点をもらえないのは理不尽だ、という趣旨の言葉です。仕事を続け、自分の生活費を稼ぎ、周囲に迷惑をかけずに生きている。それでも独身というだけで、「まだ落ち着かないのか」「いい人はいないのか」と心配されます。もちろん親の言葉の根底には、子供の将来を案じる気持ちがあります。
しかし、心配はときに評価へ変わります。結婚している人は安心。独身の人は不安定。子供がいる人は一人前。いない人はどこか未完成。そのような採点表を無意識に当てはめてしまうのです。本作には、結婚したいのではなく、「普通に働いていれば普通に生きていける権利」が欲しいだけなのだ、という切実な思いも描かれます。
一人で生きることが怖い。助け合える相手が欲しい。しかし、その安心を得るための制度が、ほぼ結婚しか用意されていない。結婚への憧れに見えて、実は社会保障と孤独への不安なのかもしれません。
第2章 結婚は二馬力になるが、問題も二倍になる
結婚すれば、収入も家事能力も二人分になります。病気や失業などの困難にも、二人で立ち向かえます。一方で本作は、結婚を「エンジンが二馬力になると同時に、トラブルも倍に増えるシステム」と表現します。
家事、育児、仕事、お金、親の介護。夫婦の生活には、決めなければならないことが次々と現れます。「家事を手伝う」と約束しても、何をどこまで行うのかは人によって違います。ゴミを出しただけで家事をしたと思う人もいれば、献立を考え、買い物をし、冷蔵庫を管理し、調理して片づけるところまでを家事と考える人もいます。
悪意がなくても、気づかない側と気づいてしまう側に分かれます。そして結局、気づいた人が行うことになる。ここに結婚生活の難しさがあります。恋愛は気持ちで始められますが、結婚は家庭という組織の共同経営です。「努力します」という言葉だけでは足りません。何を、誰が、どの程度行うのか。結婚前に現実的な話をすることは、愛情がないのではなく、むしろ関係を長く続けるための誠実さなのだと思います。
第3章 理解できなくても一緒に生きることはできる
本作で最も考えさせられたのは、人は他者を簡単には理解できないという事実です。私たちは、自分に近い価値観を持つ人には共感できます。しかし、自分と違う生き方をする人を見ると、知らないうちに評価し、順位をつけ、冷たくジャッジしてしまいます。ところが、相手もまた私たちを見ています。自分だけが観察する側だと思うのは傲慢です。笑顔で会話をしながら、互いに相手を評価している。それが人間関係の現実なのでしょう。だからこそ必要なのは、「すべてを理解してほしい」と求めることではありません。
誰もが自分を偽らず自由に生きたい。しかし、自由を主張する側にも、周囲への気遣いは必要です。反対に、理解できない側も、自分の常識だけで相手を否定してはいけません。
完全にわかり合うことはできなくても、相手の事情を想像し、互いに少しずつ譲ることはできます。結婚とは、理解し合った二人が一緒になることではありません。理解できない部分を持った二人が、それでも一緒に生きようとすることなのかもしれません。
おわりに
『多類婚姻譚』は、結婚を勧める小説でも、否定する小説でもありません。結婚、事実婚、同性のパートナー、離婚、独身。それぞれの生き方に、それぞれの幸福と不安があります。夢や目的が明確でなくてもいい。中途半端でもいい。生きるだけで精いっぱいの時期があってもいい。
必要なのは、世間から合格点をもらうことではありません。結婚という形にこだわるより、疲れたときに休める場所があること。病気のときに助けを求められること。そして、自分も誰かの支えになれること。人生に本当に必要なのは、結婚という資格ではなく、安心して弱さを見せられる関係なのだと感じました。


認知症専門医として毎月1,000人の患者さんを外来診療する長谷川嘉哉。長年の経験と知識、最新の研究結果を元にした「認知症予防」のレポートPDFを無料で差し上げています。