お恥ずかしながら、私は、この武将を知りませんでした。しかし、無敗の武将として名をとどろかせながらも、関ヶ原の合戦で領地を没収され、その後、藩主に復活した劇的な人生を、NHKの大河ドラマにしようという誘致運動までされているそうです。加来耕三さんの「立花宗茂 戦国「最強」の武将」は、そんな立花宗茂について詳細に描かれています。内容から一部ご紹介します。
- 立花宗茂は、〝独眼龍〟伊達政宗や人気の高い 真田幸村(正しくは信繁) と同じ生年=〝花の永禄十年(一五六七)組〟であった。
- 才・軍才は群を抜いていた。生涯不敗伝説の中でも、とくに次の三つは日本史を 通観しても重大。まず一つは、 島津氏の大軍を支えた。二つ目は朝鮮出兵の最中、反撃に転じた 李如松率いる 明国四万三千、李氏朝鮮十万余の連合軍に対して、宗茂がわずか三千余の寡兵 をもって大勝をあげたこと。これは日本戦史上、空前絶後の奇跡的大勝利であった。三つめは関ヶ原の戦いにおいて、〝天下分け目〟の戦いの同日、自らが担当した近江(現・滋賀県)の大津城(城主・京極高次)攻めにおいては、みごと降参、開城させている
- もしも、関ヶ原に〝生涯不敗〟の立花宗茂がいたならば、 筆者は西軍が押し切ってこの一戦、東軍に勝っていた、と確信している。おそらく、ここでも歴史は変転したはず
- なんと二十年の歳月をかけて、彼は柳河に大名として復帰を果たしている。関ヶ原敗戦のおりが三十四歳。柳河再封が決まったのは五十四のときであった。
- 九州制覇に王手のかかった島津氏の、完全支配を阻止した象徴が、秀吉のいう「その忠義、 鎮西 一。その剛勇、また鎮西一」と激賞された宗茂だった。
- 戦場にあって、苦境に追いつめられても、誰も助けてはくれない。忍耐して、自らの心身を鍛える以外に、生き残る道はなかったのである。
- 「愚」(のろま、おろか、ばかもの) は本来、世間的には喜ばれないが、この「愚」には人間のさかしらな知識が働いていないから、それこそ本当の、人間の真っ当な歩む道に合致している。
- 「愚も愚を守れば愚ならず、知も知を誇れば決して知ならず」
- 人は破綻して、はじめて猛省するもののようだ。のちの徳川家康は、秀吉の朝鮮出兵の愚挙の反省に立って、己れの政権を築くことができたといえる。 人間は痛い目を見なければ、本当のところは悟れないものなのだろう。
- 生涯不敗、それでいて心術(心のもち方) の高潔さ、出処進退の愚直さにおいて、筆者はこの人物こそ、戦国無双の武将だと信じて疑わない。