【お薦め本の紹介】『イン・ザ・メガチャーチ』・・人生後半に還ってくる“やってこなかったこと

【お薦め本の紹介】『イン・ザ・メガチャーチ』・・人生後半に還ってくる“やってこなかったこと

朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』を読んで、最も強く感じたのは、これは単なる「推し活」を描いた小説ではないということです。もちろん物語の表面には、アイドル、ファンダム、SNS、マーケティング、若者文化といった現代的な要素が並んでいます。しかし、その奥にあるテーマはもっと深いものです。それは、人間が何にすがり、何に没入し、何によって孤独を埋めようとするのか、という問いです。

特に私が共感したのは、「人生とは、これまでやってきたことが還ってくるものだと思っていた。しかし今後還ってくるのは、これまでやってこなかったことのほうなのかもしれない」という感覚です。

これは中高年になると、身にしみて分かります。仕事を頑張ってきた。成果も出した。お金もある程度得た。社会的な立場も築いた。ところが人生の後半に入ったとき、ふと顔を出すのは、積み上げてきた実績ではなく、置き去りにしてきたものだったりします。家族との時間。目的のない会話。弱さを見せること。誰かとただ一緒にいること。そうしたものを軽視してきた人ほど、人生の後半でその空白の大きさに気づくのではないでしょうか。

目次

第1章 人生後半に還ってくる「やってこなかったこと」

本作の中で印象的なのは、家族とのつながりを失いかけた男性の視点です。彼は、かつて家庭の外側にエネルギーを注いできました。仕事や社会的活動には力を尽くしてきた。しかし、それが離婚や家族との距離につながるとは思っていなかった。ここに、多くの男性が抱える盲点が描かれています。

私自身も医師として、経営者として、多くの人の人生後半に接してきました。仕事で成功した人ほど、「自分は家族のために頑張ってきた」と考えがちです。しかし家族からすると、欲しかったのはお金だけではなかった。相談に乗ってくれる時間、何気ない会話、ただ一緒に食卓にいる空気だったりします。

作中には、「家族と時を過ごさない男は本物の男ではない」という趣旨の言葉も出てきます。これは非常に重い言葉です。男性は、目的のある会話には強い。仕事の相談、進路の相談、問題解決の会議なら得意です。しかし、目的のない雑談になると途端に苦手になる。何を話せばいいか分からない。意味のない話に価値を見出せない。

しかし実は、その「意味のない話」こそが、家族や人間関係を支えているのです。作中で語られるように、雑談とは単なる無駄話ではありません。相手の状態を確認し、その場の空気を整え、互いの弱さを少しずつ分け合う行為です。言い換えれば、雑談とはケアなのです。

これまで仕事一筋で生きてきた人ほど、人生後半に必要になるのは、専門知識や肩書きではありません。目的もなく会える人。くだらない話ができる人。弱さを見せても関係が壊れない人。そういう存在なのだと思います。

第2章 推し活は趣味ではなく、現代の福祉なのかもしれない

本作のもう一つの大きなテーマは「推し活」です。推し活という言葉を聞くと、アイドルを応援する若者文化、あるいは消費行動の一種として片づけたくなります。しかし作中では、それがもっと切実なものとして描かれています。

厳しい時代の中で、推し活は趣味というより福祉に近い存在なのではないか。他者との優しくて健やかなつながりを求める行為なのではないか。そうした視点には、非常に納得させられました。

現代社会では、家族も地域も職場も、かつてほど人を支えてくれません。人間関係は希薄になり、孤独は見えにくくなっています。その中で、同じ対象を応援する人たちが集まり、情報を共有し、喜びを分かち合う。そこには確かに、一種の共同体があります。

一方で本作は、推し活を美しく描くだけではありません。人は物語に弱い。パフォーマンスそのものよりも、その前後にある物語に引き込まれる。そして一度物語に没入した人は、簡単には離れられない。これは、アイドルに限らず、政治、宗教、ビジネス、医療、経営にも通じる話です。

人は事実だけでは動きません。物語によって動きます。なぜこの人を応援するのか。なぜこの商品を買うのか。なぜこの理念に共感するのか。そこに自分の人生を重ねられる物語があると、人は時間もお金も感情も注ぎ込みます。

本作が怖いのは、その構造を運営側の視点からも描いている点です。熱量の低い百万人より、熱量の高い一万人を深く没頭させるほうが大きな力になる。ファンを気質で分類し、最も共感能力が高く、自他の境界が曖昧で、布教に励んでくれる層を育てる。これはマーケティングであり、同時に信仰の構造でもあります。

タイトルにある「メガチャーチ」とは、まさに現代社会における巨大な信仰共同体の比喩です。神がいなくても、人は何かを信じたい。何かに没入したい。自分の人生を使い切れる対象を求めている。その危うさと救いが、同時に描かれているのです。

第3章 本質を求めすぎると、人は誰からも遠ざかる

私が本作で特に深く共感したのは、「本質的に正しい答え」を求めすぎることの危うさです。作中には、どの角度から見ても間違いなく本質的に正しい答えなど、どこにもないという趣旨の言葉があります。だからこそ、どこかで「この視野で、ある程度の確率で、間違う」と覚悟を決めるしかない。

これは本当にその通りだと思います。医療の現場でも、経営の現場でも、家族介護でも、完全に正しい答えなどありません。認知症の診療でも、画像や検査数値だけを見れば済むわけではありません。その人の背景、家族関係、資産状況、本人と家族の希望によって、最適解は変わります。


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にもかかわらず、私たちは本質的であろうとしすぎることがあります。もっと広い視野で考えなければならない。もっと正しい判断をしなければならない。誰からも批判されない答えを出さなければならない。

しかし視点を後ろへ引きすぎると、いつの間にか誰の姿も見えなくなります。これは、まさに現代人の苦しさです。情報が多すぎる。世界の問題が見えすぎる。正しさの基準が複雑すぎる。その結果、頭の中だけが忙しくなり、現実では何も行動できなくなる。

作中にも、頭の中では忙しくしているのに、現実では何も積み重ならないという感覚が描かれています。これはSNS時代を生きる私たちの姿そのものです。一方で、推し活に没入する人たちは、ある意味で視野を狭める才能を持っています。外から見れば本質的でない。過剰で、浅はかで、本末転倒に見えることもある。しかしそこには、確かに連帯がある。自分を使い切る幸福感がある。

本作は、それを単純に否定しません。むしろ、本質から遠く離れた場所で咲き誇る連帯が、なぜか光って見える瞬間を描いています。これはとても重要です。

人間にとって必要なのは、常に正しいことだけではありません。生産性のあることだけでもありません。意味のあることだけでもありません。ときには、大して意味のないことにお金を払い、時間を使い、誰かと笑い合うことが、人を救うのです。

おわりに

『イン・ザ・メガチャーチ』は、推し活の小説でありながら、実は人生後半の孤独を描いた小説でもあります。

仕事を頑張ってきた人。家族のために稼いできたつもりの人。意味のある会話や本質的な議論ばかりを重視してきた人。そういう人ほど、本作は刺さるのではないでしょうか。

人生の後半に還ってくるのは、これまでやってきたことだけではありません。むしろ、これまでやってこなかったことが、静かに顔を出してきます。

家族と過ごす時間。
目的のない雑談。
弱さを見せる勇気。
何の役にも立たないけれど、誰かと共有できる楽しさ。
そうしたものを、どれだけ人生に持てるか。

推し活も、雑談も、一見すると本質的ではないように見えます。しかし人間は、本質だけでは生きていけません。正しさだけでも、効率だけでも、成果だけでも、心は満たされません。

誰かと同じものを見て、同じ時間を過ごし、楽しいことを共有し、つらいことを少し分け合う。その積み重ねこそが、人間にとっての本当の救いなのかもしれません。

本作を読んで、改めて思いました。人生で大切なのは、どれだけ正しく生きるかだけではない。どれだけ人とつながり、自分を使い切り、そして誰かの弱さに寄り添えるか。『イン・ザ・メガチャーチ』は、現代の推し活を描きながら、私たちに「あなたは何に人生を使いますか」と問いかけてくる、非常に鋭い作品でした。

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