【お薦め本の紹介】ひのえうま~江戸から令和の迷信と日本社会

【お薦め本の紹介】ひのえうま~江戸から令和の迷信と日本社会

私は丙午(ひのえうま)の早生まれです。そのため、一学年下の生徒数が極端に少なかったことを、当時から実感していました。その理由が、単なる迷信にすぎない「丙午」であることはなんとなく知っていたものの、明治時代にはこの迷信の影響で若い女性が自ら命を絶つことさえあったという事実を、この本で初めて知りました。妊娠期間の約280日を逆算すると、2025年(令和7年)4月ごろから約1年間に妊娠し、出産を迎えた子どもたちが「令和の丙午」となります。
この迷信が、令和の時代にまで影響を及ぼすような社会現象とならないことを、心から願うばかりです。

  • ひのえうまというのは、迷信のために赤ちゃんを産むのを控える人が多かった年のこと
  • この年に生まれた赤ちゃんの数は136万974人。  前年比で約 46 万3千人減、比率にすると4分の3以下に落ち込みました。しかし翌年には、出生数は約 57 万5千人増と回復し、その人口規模で団塊ジュニアへと続いていきます。
  • 人口ピラミッドにここまで深い切り欠きを残すほどのインパクトがあったのは、じつはこの昭和のひのえうま一度きりなのです。
  • 昭和のひのえうまは、そのような「事故」(インシデント) ではありません。俗言に左右された、個々の親たちの判断の集積という、社会学的メカニズムによってもたらされた「現象」(フェノメノン) なのです。
  • 2026(令和8) 年には、暦が一巡して次のひのえうまが到来します。はたして、再び赤ちゃんの数は減るのでしょうか?
  • 丙午(ひのえうま)は、 十干十二支 のひとつで 60 年ごとにめぐってきます。この年に限って、穏やかならぬことがいわれてきました。それは、この年生まれの女性は気性が激しい、七人の夫を食い殺す、嫁ぎ先に災いをもたらす、さらには、ここに書くのはちょっと 憚 られるような 悪口雑言 まで……。
  • ひのえうまは、もとは古代中国に起源をもつ陰陽五行説に由来しています。しかし他の東アジア社会には、この年生まれの女性が云々というような迷信はほとんどなく、せいぜい災禍が多い年だとされているにとどまります。
  • 60 年周期の歴史を繰り返すうちに、ひのえうま女性は気性が荒いらしく、婚姻に差し障りがあるという風説が広まり、何の過ちがあるわけでもないのに、該当する女性たちに 厄難(社会の側から加えられる圧力) が降りかかるようになりました。
  • この迷信は、大安や仏滅などのお日柄とか、鬼門を避けるとか、清めの塩とか、鰻と梅干の食い合わせのような験担ぎとは違い、婚姻と次世代の再生産(妊娠・出産) を通じて、社会のあり方に跳ね返ってくるものです。この再帰性ゆえに、ひのえうまは、数ある迷信のなかでも格別の扱いを受けるものになった
  • 八百屋 お七は、ひのえうま女性の代名詞のように扱われてきました。江戸の町の火事で焼け出され、寺に一次避難していた八百屋の娘お七は、そこで出会った男に恋心を抱きます。お七は、再び火事になれば男と再会できると 目論み、大胆にも大罪の火付け(放火) を犯し、自ら半鐘を叩きます。そしてその 咎 で火刑に処されてしまうのです。
  • ひのえうま女性の気性の激しさが世間に 浸潤 していくなか、めぐってきたのが1726(享保 11) 年の 享保のひのえうま です。これ以降、ひのえうま女性との婚姻を嫌うことが、禁忌としてのかたちをもち始めます。
  • こうして虚実織り交ぜた言説が拡散すると、ひのえうま女性たちの人生、とりわけ縁談にかんする不利益は確定的になります。元来は根も葉もない 巷説(いわゆるデマ) であったものも、多くの人びとが信じてしまうと、より正確には、多くの人びとが信じていると多くの人が認識すると、実際の姿を伴うようになるのです。
  • 昭和のひのえうまの大出生減を引き起こすことになる当該年の出産忌避は、個人内で完結する認知と行動であったわけではなく、世代を超えた大きな社会的連鎖が、ゆっくりと一巡りして成立したものだったのです。
  • 大正・昭和期に庶民にささやかれていたのは、公武合体策として徳川十四代将軍 家 茂 に 降嫁 した皇女 和宮 がこの年の生まれであり、やはり夫が早世しているという事実でした。
  • ひのえうまの生まれを避けるということは、各回のひのえうまで一貫しているのですが、その主たる方法は、江戸期は子流し・間引き、明治は女児の祭り替えと、全く異なっていたのです。
  • 明治のひのえうま女性たちは、デモクラシーはどこ吹く風で、ひのえうまが理由で縁付かない実例や、世をはかなんで自ら命を絶つ事件が、新聞でさかんに取り上げられています。
  • 大正から昭和にかけての日本社会の近代化は、ことひのえうま迷信にかんしては、合理的価値観の浸透による解消の方向へは進まず、全く反対に、広く普及した新聞の報道により、かつてないデマの大衆煽動を引き起こしていたのです。
  • ひのえうまに生を 享 けた女性には、婚期において厄難が降りかかるものだという風聞は、江戸期以上にしっかりと社会に根付いていくことになりました。
  • 昭和のひのえうまでは逆に、出生減は甚大でしたが、女性の厄難は極めて小さいものでした。これは同年の出生数の少なさと、婚姻をめぐる後の困難との間に、社会の仕組みの繋がりがほとんどないためです。
  • 1966(昭和 41) 年の昭和のひのえうまにおいて、「そんなものは、今の時代にはもはや再来しない」と楽観視されるなか、史上最大の出生減を現出させることになったのです。
  • 確かに、ひのえうま迷信の存在は動機として欠かせない要因でした。しかし、これが大規模な出生減として実体化するためには、手軽で確実な出産回避手段としての避妊が、その合理性や正当性の啓蒙とともに、該当する人びとに根付いていることが必要不可欠であったと思われます。
  • 昭和のひのえうま生年には第一子が多く、第二子以降が少ないという不可思議な特性は、受胎調節実地指導を理解のカギとすることで、腑に落ちるものにすることができるのです。
  • 秋篠宮家の長女、眞子内親王(現在は小室眞子さん) の婚姻が難航したことです。このとき、双方の母親が、同年に生まれたひのえうま女性であることが取り沙汰されました。
  • 初婚の夫と知り合ったきっかけについては、この生年世代では見合い結婚が5%前後にとどまっていることがわかります。すでに述べたとおり、ひのえうま生年が重要な意味をもつのはお見合いをした場合です。
  • ひのえうま迷信は、出生時にはあれほど大騒ぎになったにもかかわらず、肝心の婚期には、もはや人びとにほとんど取り合われていなかったのです。享保以降のひのえうまの歴史において、女性の婚姻厄難が生じなかったのは、昭和のひのえうまが初めてのことです。社会的事実としてのひのえうまの婚姻厄難は、ここで消滅してしまったといえるでしょう。
  • 60 年前の昭和のひのえうまのとき1・58 で大騒ぎになった合計特殊出生率は、なんと1・20 にまで落ち込んでいます。
  • 令和のひのえうまでは、大規模な出生減が生じる可能性は極めて低いと断言できます。
  • 今の日本社会が、 もはやひのえうまの出生減すら起こせないほどの少子化状況 にあるということを、図らずも描き出しているのです。
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