【お薦め本の紹介】紫式部と藤原道長

【お薦め本の紹介】紫式部と藤原道長
2024-05-01

大河ドラマ「光の君へ」はかなり大胆に描かれているため、物語としては楽しめます。しかし、実際のところはかなり異なるようです。倉本さんの本では、別の視点で紫式部と藤原道長を見ることができ、大河ドラマより深く楽しむことができます。

  • 後世、「 紫式部」と称されることになる女性は、確実に実在した。
  • これは彼女が藤原実資の記した古記録 である『小右記』という一次史料に、「藤原為時の女」として登場して、その実在性が確認できるから言える
  • 清少納言は交流のあった藤原行成の『権記』をはじめとする一次史料にはまったく名前が見えないから、実在したかどうかは、百パーセント確実とは言えない。
  • 彼女は自分が「紫式部」と呼ばれることになるとは、死ぬまで知らなかったであろう。
  • 道長の命令と支援があったからこそ、紫式部は『源氏物語』や『紫式部日記』を執筆して、世界最高の文学の金字塔を打ち立てることができたのであるし、『源氏物語』が道長の管轄下で執筆されたからこそ、三人目の外祖父摂政や、摂政を頼通に譲った後も「大殿」、さらに出家した後も「禅閤」と称されるほどの、日本史上未曾有の権力を手に入れることができたのである。
  • 藤原北家でも、嫡流を少しでも外れると、このくらいの地位の低下は、一般的なことであった。
  • 為時二女として生まれた紫式部は、早くに生母に死別し、父も後妻の許に通う日々の中で、寂しい幼年期を過ごしたはずである。
  • 五男とはいえ 摂関家 の子息である道長と無官の貧乏学者の女である紫式部が幼少時に顔を合わせた可能性は、ほぼゼロといったところであるが。
  • 実資の日記である『小右記』は、二十一歳の貞元二年(九七七)から八十四歳の長久元年(一〇四〇)までの六十三年間に及ぶ記録で、当時の政務や儀式運営の様子が、詳細かつ精確に記録されている古代史の最重要史料である。
  • 倫子と結婚したことによって、道長の運は開け、 宇多源氏の高貴な血と雅信の政治的後見と土御門第を手に入れることができたのである。
  • 倫子自身も位階を進められ、寛弘五年(一〇〇八) にはついに従一位に達した。 長暦三年(一〇三九)に出家し、 天喜元年(一〇五三)、九十歳の長寿を得て死去した。
  • 明子は正暦四年(九九三)に頼宗、正暦五年に 顕信、長徳元年(九九五) に能信、長保元年(九九九) に寛子、長保五年(一〇〇三)に尊子(隆子)、寛弘二年(一〇〇五)に長家 と、四人の男子と二人の女子を産んだ。これも長家を産んだのは四十一歳のときのことであった。こちらも八十五歳の長寿を得ている。
  • 紫式部は結婚後わずか二年半ほどで寡婦となってしまったのである。
  • 当時、紙は非常に貴重であった。こういう状況から、紫式部はいずれかから大量の料紙を提供され、そこに『源氏物語』を書き記すことを依頼されたと考える方が自然であろう。そして依頼主として可能性がもっとも高いのは、 道長を措いては他にあるまい。
  • 道長の目的が、この物語を一条天皇に見せること、そしてそれを彰子への寵愛につなげるつもりであった
  • 紫式部が彰子に出仕した時点では、すでに清少納言が仕えていた定子は死去しており、紫式部と清少納言が宮中で直接顔を合わせる機会はなかったのである。
  • 平安時代を通じて、外祖父摂政は清和朝の藤原良房、一条朝の藤原兼家、そして後一条朝の道長と、三例しか見られないのである
  • 浄土信仰は、 現世 での栄達が望めない文人貴族からはじまったのであるが、道長のような権力者が信仰することで、広く浸透していった。
  • 道長なくして紫式部なし、紫式部なくして道長なし
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