うちの父が運転をやめません(著:垣谷美雨)は、一見すると「高齢者の免許返納問題」を扱った物語です。しかし読み進めるうちに気づきます。これは単なる交通安全の話ではなく、お金、家族、仕事、誇り、そして“将来”とは何かを問う物語だということに。
認知症専門医として日々外来に立つ私にとって、本書はフィクションでありながら、あまりにも現実的でした。
目次
1.運転は“移動手段”ではない
作中で父は言います。「車には思い出がいっぱい詰まっとる。つまりや、わいらの誇りにつながっとる」この一文に、高齢者の運転問題の核心があります。
私たち医療者は、運転を「危険性」や「機能低下」の視点で語ります。しかし当事者にとって車とは、
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家族を養ってきた証
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働いてきた証明
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男としての自尊心
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社会とつながる最後の糸
なのです。
だからこそ、「言えば言うほど意固地になる」。これは臨床でもまったく同じです。論理で説得しようとするほど、心は閉じていきます。
2.本当に高齢者ドライバーは危険なのか?
作中にはこんな指摘もあります。『高齢者の飲酒運転率は最も低い。死亡事故が最も多いのは十八歳から二十四歳。』統計的に見れば、一部は事実です。若年層の重大事故率は確かに高い。
しかし医師として重要なのは「事故率」ではなく事故の質です。認知症や前頭葉機能低下が関与する事故は、
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ブレーキとアクセルの踏み間違い
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コンビニへの突入
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歩道への乗り上げ
といった、被害の大きい制御不能型事故になりやすい。そして問題は、「自分は大丈夫」と思っていることです。
3.認知症外来の現実
作中にはこうあります。『認知症外来に通っていたことが、もっぱら町の噂になっている』これも現実です。
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「認知症と分かっていて運転させた家族」
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「医者は止めなかったのか」
という社会の目。私は診察室で、何度も家族から言われます。「先生、どう言えばやめてくれますか?」しかし医師の一言でやめる人は、実はそれほど多くありません。
やめる決断は、医学ではなく人生の問題だからです。
4.お金と運転問題
この物語の底流に流れているのは「お金」の不安です。「金が欲しい。喉から手が出るほど金が欲しかった」
都市部で働き続ける娘。
共働きで時間に余裕がない家庭。
夕飯代として子に渡される八百円。
そして地方の高齢者。
車を手放せば、
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買い物はどうする?
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病院は?
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タクシー代は?
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仕事は?
都市部の吉祥寺のように
「車がなくても快適に暮らせる」
場所は限られています。
地方では車は生活インフラです。
免許返納は“安全”の問題であると同時に、“経済”の問題なのです。
5.「将来」はいつ来るのか
物語の中で繰り返される問いがあります。「将来っていつなんじゃ」
受験のために我慢し、就職のために我慢し、定年後のために我慢し、そして気づけば五十代。私も外来で、80代の患者さんからよく言われます。「五十代は若かったぞ」
それなのに私たちは、「老後のため」に今を削っている。
運転をやめられない父の背景には、
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定年後こそ自由になれるはずだった
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やっと好きなことができるはずだった
という思いがあります。その最後の自由が「運転」なのです。
6.認知症専門医として伝えたいこと
免許返納を考える際、私は次の3点を重視します。
① 医学的評価
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MMSEやMoCAだけでなく
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前頭葉機能、注意力、判断力
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家族からの具体的エピソード
② 代替手段の提示
やめろと言うだけでは不十分です。
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送迎サービス
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移動販売(作中の「ヒマワリ号」)
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地域包括支援センターとの連携
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タクシー補助制度
③ 誇りを奪わない言い方
「危ないからやめろ」ではなく、
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「次の役割を探しませんか」
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「車以外の誇りを作りませんか」
が重要です。
7.人は“役割”がなくなると弱くなる
物語で印象的なのは、「こんな俺でも人の役に立ってるんだっていう自己満足が大切なんだ」という言葉。
これは認知症予防の核心です。役割がなくなると、
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外出が減り
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会話が減り
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前頭葉が衰え
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さらに運転判断も鈍る
負のスパイラルに入ります。
だから私は、返納後の“役割”を一緒に探します。
8.私たちも、いずれ当事者になる
「誰もがいつかは高齢者になる」これは本当にその通りです。50代の私たちも、若者から見れば「異星人」かもしれない。今の若い世代が将来、同じようにハンドルを握る日が来ます。だからこれは「高齢者問題」ではなく、“未来の自分の問題”なのです。
9.最後に
本書は問いかけます。
便利さは何のためか。
お金は何のためか。
我慢の先にある“将来”とは何か。
そして私は診察室で、今日も家族と向き合います。
免許返納はゴールではありません。
人生の再設計のスタートです。
運転をやめることは、敗北ではない。
次の誇りを見つける一歩です。
そして何より、
「話し合うことが、夫婦にとっては何よりも大切」
家族で語り合うこと。それが最大の予防策です。
車を降りたあとも、人はちゃんと走り続けられるのです。


認知症専門医として毎月1,000人の患者さんを外来診療する長谷川嘉哉。長年の経験と知識、最新の研究結果を元にした「認知症予防」のレポートPDFを無料で差し上げています。