『空中ブランコ』は、人間の弱さや滑稽さを描きながら、それを決して否定しない小説です。真面目な人ほど、自分の失敗や欠点を許せず、苦しくなります。しかし伊良部を見ていると、もっと不格好でも、もっと開けっ広げでもよいのではないかと思えてきます。
目次
第1章 こんな医者がいてもいい
奥田英朗さんの『空中ブランコ』に登場する精神科医・伊良部一郎は、医師らしい威厳とはほど遠い人物です。無邪気で、わがままで、患者の悩みに深刻な顔で寄り添うこともしません。注射が大好きで、時には患者以上に突拍子もない行動を取ります。
それでも読み進めるうちに、患者たちは少しずつ変わっていきます。伊良部が優れた治療法を説明するわけでも、立派な人生訓を語るわけでもありません。むしろ、悩みを必要以上に深刻に扱わず、患者のこだわりや弱さを丸ごと笑い飛ばしてしまいます。
「周りをらくにさせるっていうのは大事な性格だと思う」この言葉は、伊良部という人物の本質を表しているように感じました。本人は周囲への配慮など考えていないように見えます。しかし、その遠慮のなさや無邪気さが、結果として患者の緊張を解いていくのです。
医師は患者を立派な人間に作り替えるのではなく、今のままでも生きていけると思わせる存在であってもよい。伊良部の姿から、そんな医療のあり方もあるのだと感じました。
第2章 生きづらさは体裁から生まれる
この作品に登場する患者たちは、それぞれ異なる悩みを抱えています。しかし共通しているのは、自分で自分を縛っていることです。失敗してはいけない。弱みを見せてはいけない。周囲からおかしいと思われてはいけない。そうやって体裁を守ろうとするほど、心も体も自由を失っていきます。
「体裁を取り繕うって人生を生きにくくしない? 開けっ広げの人間の方が絶対にらくなんじゃない?」まさにその通りだと思います。伊良部は、体裁を取り繕うという発想そのものがありません。自分の欲望にも感情にも正直で、他人にどう見られるかを気にしません。その姿に振り回されながら、患者たちは次第に「自分もそこまで格好をつけなくていいのではないか」と気づいていきます。
「性格っていうのは既得権だからね。あいつならしょうがないかって思われれば勝ちなわけ」この言葉にも笑いながら納得しました。欠点を隠し続けるよりも、「こういう人だから」と周囲に認めてもらった方が、人生はずっと楽になります。自由とは、誰かに与えてもらうものではありません。「またひとつ壁を突き抜けた気がした。自由とは、きっと自分でつかむものなのだ」自分を縛っている壁を壊すのは、結局は自分自身なのだと思います。
第3章 人を救うのは、やはり言葉である
この小説は笑える作品ですが、その奥には、人が立ち直る瞬間が丁寧に描かれています。悩みを抱えている人は、一人で考え続けるうちに、物事を実際以上に大きくしてしまいます。怖さも同じです。「乳児が蛇を恐れないのは、勇気があるからではなく、それが何か知らないからだ」人は知ることで不安になり、経験することで傷つきます。しかし同時に、人との対話や言葉によって、その不安から救われることもあります。
「心がいっきに軽くなった。言葉の力を思い知った。どうしてもっと早く、対話をしなかったのだろう」悩みを口に出し、誰かに聞いてもらうだけで、世界の見え方が変わることがあります。問題がすべて解決したわけではなくても、「自分だけではない」と思えるだけで、人はもう一度前を向けるのです。
「人間の宝物は言葉だ。一瞬にして人を立ち直らせてくれるのが、言葉だ」医療においても、薬や検査だけでは人を救えません。何気ない一言が、患者さんやご家族の心を軽くすることがあります。だからこそ、言葉を扱う仕事には大きな責任と喜びがあるのだと思います。
おわりに
読後には問題が解決したわけでもないのに、なぜか心が軽くなります。重い現実を描く作品にも価値がありますが、このように読み終えた後に楽しい気持ちになり、「きっと大丈夫」と思わせてくれる小説も、とても大切です。
負けそうになることは、この先も何度もあるでしょう。それでも、その都度、人や本や言葉から勇気をもらえばよい。『空中ブランコ』は、笑いながら人生の重荷を少し下ろさせてくれる、優しい小説でした。

