私は、現在54歳です。昭和41年2月生まれですので、1年下の学年は、2クラス少ないほど出生数が少なかったいわゆる丙午(ひのえうま)年世代でした。
ちなみに、「丙午の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信」は、「丙午の年には火災が多い」という江戸時代初期の迷信が、「八百屋お七が1666年の丙午生まれ」だとされたことから女性の結婚に関する迷信に変化して広まったそうです。
*八百屋お七:江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。
驚くことに、この迷信は明治時代以降も続き、1906年(明治39年)の丙午では、前年より出生数が約4%減少。生まれた女児の出生届を前後の年にずらして届け出ることもあったそうです。1906年生まれの女性が結婚適齢期となる1924年(大正13年)頃からは迷信を否定する談話や、縁談が破談となった女性の自殺の報道などが相次ぎ、丙午生まれの迷信が女性の結婚に影響したそうです。
この迷信は昭和になっても強かったそうですから驚きです。なんと私が生まれた1966年の出生率は前年に比べて25%も下がる影響があったのです。この前年および翌年の出生数が増えたのは丙午の余波だそうです。現在ほど、情報社会でなかった時代に、迷信だけで日本中の夫婦が子供を作ることを控えたことを考えると不思議な気がします。もちろん、そんな時にも普通に自分を生んだ両親は、「らしいな」と納得もしてしまいますが…