脳卒中は、日本人の要介護原因として今なお非常に大きな位置を占めています。命が助かっても、半身麻痺、言語障害、高次脳機能障害などの後遺症が残り、「以前の生活に戻れない」という現実に直面する患者さんは少なくありません。
一方で、臨床の現場では昔から不思議な現象がありました。「最初は全く動かなかった手が、数カ月である程度動くようになる」「話せなかった人が、少しずつ言葉を取り戻す」脳細胞は一度壊れると再生しない――そう教わってきたにもかかわらず、脳には確かに“回復する力”が存在していたのです。
今回、東京科学大学 の研究チームが、この「脳が回復する仕組み」の一端を明らかにしました。研究の中心となったのは、「ミクログリア」という脳の免疫細胞です。この発見は、単なる基礎研究ではありません。将来的には、脳卒中後遺症を減らす新しい薬の開発につながる可能性があります。
目次
第1章 脳卒中は“その瞬間”だけの病気ではない
脳卒中というと、多くの方は「突然倒れる病気」というイメージを持っています。確かに、発症時のインパクトは非常に大きい病気です。
- 手足が動かない
- ろれつが回らない
- 意識障害
- 歩けない
- 飲み込めない
こうした症状が急激に出現します。しかし本当に重要なのは、その後なのです。脳卒中治療は、昔に比べて劇的に進歩しました。特に脳梗塞では、
- t-PA(血栓溶解療法)
- カテーテルによる血栓回収療法
などにより、「詰まった血管を再開通させる」ことが可能になりました。かつてなら寝たきりになっていた患者さんが、自宅退院できるケースも増えています。しかし、それでもなお問題は残ります。脳の神経細胞が一度ダメージを受けると、その部分の機能は完全には戻らないことが多いからです。実際、脳卒中後には、
- 麻痺
- 失語
- 注意障害
- 遂行機能障害
- 感情コントロール障害
など、様々な後遺症が残ります。そして多くの患者さんは、「リハビリをしている最初の数カ月は改善したのに、その後は止まった」と感じます。これは医学的にも事実で、脳卒中後の回復は発症後1週間から3カ月程度が最も大きいとされています。
逆に言えば、脳には“回復しようとする期間”が存在しているのです。しかし、なぜ回復できるのか。なぜ途中で止まるのか。その詳細は、長年よく分かっていませんでした。
第2章 脳を修復する「ミクログリア」という存在
今回の研究で注目されたのが、「ミクログリア」です。ミクログリアとは、脳の中に存在する免疫細胞です。従来、ミクログリアは、
- ゴミ処理
- 炎症反応
- 異物排除
などを担う“脳の掃除屋”のような存在と考えられてきました。しかし近年、この細胞が単なる掃除役ではなく、脳機能そのものに深く関与していることが分かってきています。今回の研究では、脳梗塞を起こしたマウスを解析したところ、ミクログリアが「神経修復を促す物質」を放出していたことが確認されました。
つまり脳は、壊れた直後から、「何とか修復しよう」としていたのです。これは非常に重要な意味を持ちます。これまで脳卒中後遺症に対しては、
- リハビリ
- 環境調整
- 代償手段の獲得
が中心でした。もちろんこれらは今後も極めて重要です。しかし今回の研究は、「脳そのものの修復能力を高める治療」につながる可能性を示しています。さらに興味深いのは、「回復を抑えてしまうタンパク質」の存在も見つかったことです。つまり脳には、
- 修復を促す力
- 修復を止める力
の両方が存在しているということです。これはある意味、非常に人間らしい仕組みです。炎症が過剰になれば脳は壊れます。しかし炎症を完全に止めれば、修復も起きません。適度な炎症と修復のバランスが重要なのです。実際、近年の神経科学では、「炎症=悪」ではないことが分かってきています。
アルツハイマー病、パーキンソン病、多発性硬化症などでも、ミクログリアは重要な役割を果たしています。脳は単なる“配線”ではありません。免疫、炎症、代謝、血流などが複雑に絡み合った、極めて動的な臓器なのです。
第3章 「治らない」が変わる可能性
この研究が本当に重要なのは、「脳卒中後遺症は固定される」という常識を変える可能性がある点です。現在の脳卒中診療では、「発症後数カ月で回復は頭打ちになる」という考え方が一般的です。もちろん、リハビリによる改善は長期的にもあります。しかし、“劇的改善”は時間とともに難しくなることが多いのも事実です。だからこそ、多くの患者さんや家族は、「もうこれ以上は良くならない」という言葉に苦しみます。しかし、もし脳の修復機能を再活性化できるならどうでしょうか。
- 回復の期間を延ばせる
- リハビリ効果を高められる
- 後遺症を軽減できる
可能性があります。これは極めて大きな変化です。特に高齢社会の日本では、脳卒中後の要介護が社会全体の大きな問題になっています。身体機能だけではありません。脳卒中後には認知機能低下も起こりやすく、血管性認知症につながることも少なくありません。
つまり脳卒中治療とは、「命を救う医療」だけではなく、「人生を守る医療」でもあるのです。もちろん現時点では、今回の研究はまだ動物実験段階です。ヒトで同様の効果が確認されるかは、今後の研究を待たなければなりません。
おわりに
脳卒中診療をしていると、「もっと早く良くしてあげられないか」と感じる場面は数え切れません。
リハビリを懸命に頑張る患者さん。
支え続ける家族。
それでも残る後遺症。
医療者として無力感を覚えることもあります。しかし今回の研究は、脳が単に壊れて終わる臓器ではなく、「自ら修復しようとしている臓器」であることを改めて示しました。そして、その力を医学が後押しできる時代が来るかもしれません。ミクログリア研究は、まだ始まったばかりです。
しかしその先には、“治らない”を変える未来があるのではないか――そんな期待を感じさせる研究だと思います。

認知症専門医として毎月1,000人の患者さんを外来診療する長谷川嘉哉。長年の経験と知識、最新の研究結果を元にした「認知症予防」のレポートPDFを無料で差し上げています。