ある日、認知症の患者さんのご家族が、ある異変に気づきました。「いつも身につけていた指輪がない」その患者さんは、毎日のように指輪を眺めては、「これ、きれいでしょう?」と誇らしげに話していたそうです。本人にとってはもちろん、家族にとっても長年見慣れた大切な思い出の品でした。
ところが、ある日突然、その指輪がなくなっていました。部屋を見渡すと、机の上に置かれていたのは1万円札。家族が事情を尋ねても、最初ははっきりと答えません。しかし、何度か話をしているうちに、訪問買取の業者が自宅に来ていたことが分かりました。
売ったのは、大切にしていた指輪だけではありません。石が外れた古い指輪や、使わなくなったアクセサリーなど、合計7点。本人は少しうれしそうに、こう話したそうです。「古くなったものと、使わないものをまとめて1万円にしてもらったのよ」本人には、騙されたという意識はありません。むしろ、不用品がお金になり、「得をした」と感じていました。ここに、認知症高齢者を狙う訪問買取の怖さがあります。
目次
第1章 32万円の品物が1万円で買い取られた
幸い、このご家庭では家族がすぐに異変に気づきました。机の上には買取明細書が残されていたため、家族は直ちに業者へ連絡しました。すると業者は自宅へ戻り、買い取った品物をすべて返還したそうです。ここまで聞くと、「返品に応じたのだから、良心的な業者だったのではないか」と思う方もいるかもしれません。しかし、問題はその後です。
家族が念のため、近隣にある別の買取店へ7点の指輪を持ち込み、査定してもらいました。その結果、提示された評価額は約32万円でした。32万円の価値がある品物が、わずか1万円で買い取られていたのです。その差額は31万円にもなります。
今回は品物を取り戻すことができました。しかし、家族が気づくのが数日遅れていたらどうでしょうか。明細書が捨てられていたら、業者の連絡先が分からなかったら、品物がすでに転売されていたら、取り戻すことは難しかったかもしれません。
さらに厄介なのは、本人が被害者だと感じていないことです。「自分の意思で売った」「1万円もらえてよかった」と思っているため、家族が問題を指摘しても、なかなか理解してもらえません。単なる売買上の失敗ではなく、判断能力の低下につけ込まれた可能性を考える必要があります。
第2章 会話ができても、適切に判断できるとは限らない
認知症の初期から中等度の方は、外見上はしっかりしているように見えることがあります。普通に会話ができ、自分の名前を書き、契約書に署名することもできます。そのため、短時間接しただけでは、判断能力の低下に気づかれないことも少なくありません。しかし実際には、品物の相場を調べる、複数の価格を比較する、相手の説明を疑う、その場で決めずに家族へ相談するといった能力が低下していることがあります。
認知症では、記憶力だけでなく、前頭葉が担う判断力や抑制力も影響を受けます。前頭葉は、いわば行動にブレーキをかける部分です。この働きが弱くなると、その場の雰囲気や感情に流され、即断しやすくなります。
例えば業者から、「奥様、素敵な指輪ですね」「これは価値がありますよ」「今日なら特別に値段をつけます」などと言われれば、誰でも悪い気はしません。高齢になり、人から褒められる機会が減っている方にとっては、特にうれしく感じられるでしょう。「自分はまだ価値のあるものを持っている」「自分の持ち物が役に立った」という満足感が、冷静な判断を上回ってしまうのです。
目の前に現金1万円を置かれれば、その場では十分に大きな金額に見えます。本当は32万円の価値があっても、比較する情報がなければ、「1万円ももらえた」と納得してしまいます。認知症の怖さは、本人が何も分からなくなることではありません。一見すると理解しているように見えながら、重要な判断だけが難しくなっていることなのです。
第3章 財産だけでなく、本人の尊厳を守る
訪問買取の被害を防ぐためには、家族が日頃から具体的な対策を取る必要があります。まず、突然訪問してきた業者とは、その場で契約しないというルールを決めておきましょう。「家族に相談しないと売れません」と伝える練習をしておくことも有効です。
玄関には「訪問販売・訪問買取お断り」と表示し、貴金属、通帳、印鑑などの保管場所も見直します。本人の尊厳や生活上の自由に配慮しながら、特に高価な品物については家族が定期的に確認することも必要です。近所の方やケアマネジャー、訪問介護員などに、「見慣れない業者が出入りしていたら教えてほしい」と伝えておくことも、地域による見守りにつながります。
そして何より大切なのは、被害に遭った本人を責めないことです。「どうして勝手に売ったの」「そんなことも分からないの」「騙されたのよ」と強く叱ると、本人は「自分の判断を否定された」と感じます。その結果、次に同じことが起きても、家族に隠すようになるかもしれません。
「今回は少し安かったみたいだね」「戻ってきてよかったね」「次からは一緒に相談しよう」このように伝え、信頼関係を守ることが大切です。守るべきものは、指輪やお金だけではありません。「自分は家族から信頼されている」「自分には価値がある」という本人の尊厳も守らなければならないのです。
終わりに 話し合うだけで防げる被害がある
今回のケースでは、ご家族がすぐに異変に気づき、明細書を確認して業者へ連絡したことで、大切な指輪を取り戻すことができました。しかし、すべての家庭で同じように対応できるとは限りません。訪問買取だけでなく、訪問販売、不要な住宅修理、投資勧誘、健康食品の定期購入など、判断力が低下した高齢者を狙う商法は身近なところに存在します。
認知症になると、何も判断できなくなるわけではありません。だからこそ、本人も家族も変化に気づきにくく、被害が表面化しにくいのです。ぜひ一度、ご家族で話し合ってみてください。突然業者が来たらどうするのか。貴重品はどこに保管しているのか。困ったときには誰に連絡するのか。
こうしたことを元気なうちから決めておくだけで、防げる被害があります。本人の財産と尊厳を守るために必要なのは、厳しい監視ではありません。日頃からの会話と、さりげない見守りです。この記事が、どこかの家庭で起こる被害を一件でも防ぐきっかけになれば幸いです。

認知症専門医として毎月1,000人の患者さんを外来診療する長谷川嘉哉。長年の経験と知識、最新の研究結果を元にした「認知症予防」のレポートPDFを無料で差し上げています。