白い航跡by吉村昭

先日、素敵な本に出会うことができました。吉村昭さんの『白い航跡』です。
その内容ですが、高木兼寛なる医師の生涯を克明に綴ったものです。戊辰戦争のくだりから入ります。明治維新は、武士だけでなく、多くの医師にとっても価値観を変える出来事であったようです。ここで、変われる医師と変われない医師で、その後の人生が大きく異なったようです。

さて高木兼寛は、医師として優秀であっただけでなく日本海軍の軍医で慈恵医大の創始者でもあり、看護婦の養成学校を日本で初めて設立しました。さらに、日本初の生命保険会社の立ち上げにも関与していたのですから、かなりバランス感覚が優れていたようです。

彼は、脚気に関わった日本の医師の中でも押しも押されぬ第一人者です。日本の風土病と言われた脚気の病態、治療について、森林太郎(鷗外)らの東京大学医学部閥の陸軍医師達から激しい非難を浴び続けました。それでも信念を曲げず、原因究明と治療法の確立に大変な情熱を注ぎ、精神に異常きたすほどまでに努力をした人です。

恥ずかしながら脚気という病気でこれほどの人が亡くなっていたことを知りませんでした。昔は、本当にたくさんの人が脚気に罹り、原因も治療もわからないまま亡くなった方が多いようです。古くは江戸時代の3代目将軍徳川家光や13代の家定、14代の家茂もこの病気に罹り、それが誘因で死亡しています。また明治時代には天皇、皇后をはじめ皇室の方々も脚気にかかり療養されました。

明治時代において、大変だったのが高木の属する海軍と森林太郎の属する陸軍でした。明治10年の海軍は総人員1,552名でしたが、年間延6,344名の患者がでました。つまり一人平均、年4回も脚気に罹ったことになるという由々しき状態でした。翌年の明治11年には海軍の総兵員4,528名のうち1,485名、33%が脚気に罹り、死者も32名で、海軍が脚気のために滅亡するとまで言われました。その後海軍では、高木の改良した食事内容を受け入れ、明治17年には脚気患者はほとんどなしという画期的な変革を遂げたのです。

しかし、森らが属する東大閥の陸軍では高木が唱える食事法を受け入れることなく、明治27年の日清戦争では、陸軍全体で戦死者・戦傷死者が1,270名であったのに対し、脚気でなんと3,944名もの死者が出たのです。さらに10年後の日露戦争では陸軍の脚気による死者は27,800名にも上りました。さすがに陸軍内部からも森らを批判し、一部では高木の提唱する食事法を取り入れるようになりました。


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脚気は白米の偏食によるという「脚気白米説」を唱える高木に対して、森らは「細菌説」を唱え一貫して批判的な態度を取りました。森林太郎(鷗外)というと、作家というイメージが強いのですが、医師としては極めて権威意識が高かったようです。彼の間違った説により、多くの命が失われたことはとても残念なことです。

高木はイギリス留学で学んだ栄養学を基にその食事を洋風にし、ほとんど摂取されていない肉類や麦飯などを取り入れ、苦労に苦労の末、ついに国民病である脚気を見事に駆逐したのです。そこには、国策や国家予算まで影響を与えるほどの政治的折衝もありましたし、難題もそれこそ山ほどありましたが、持ち前の不屈の精神で乗り切りました。

以上がこの本の大筋です。医学生、もちろん医師にも是非是非読んでもらいたい書物です。医学生の一般教養時代の必読書にしてもいいくらいに価値のある一冊と思います。もちろん、医療関係者でなくとも、十分堪能できる本です。

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