我々医師の中では、「医師は、自分の専門領域の病気にかかることを極度に恐れる」という言葉があります。その病気について、知り過ぎているからこそ不安も大きいからです。
今回ご紹介する、『東大教授、若年性アルツハイマーになる』の若井晋さんは、まさに自分の専門である認知症になった医師のお話です。読み進めると最初のうちは不安焦燥が伝わってきますが、最後にはとても前向きな気持ちになれる本です。認知症専門医としてもとてもお薦めです。
- 病は人生の一過程にすぎない。たまたまそれが脳の病気だっただけだ
- 「認知症になったら人生は終わり」とか、認知症を「恥ずかしい病」などと考えるのは誤り
- 「ATMでお金が下ろせないから、持ってきて」 仕事だけでなく、日常生活の面でもひっかかることは増えていきました
- 晋に受診をすすめて、「僕は医者だからわかっている」と厳しくはねつけられたことがありました
- アルツハイマー病による脳の不調が腸へのストレスとなって、下痢を引き起こすこともある
- 脳が萎縮しアルツハイマー病といえるような状態の修道女もいましたが、それでも認知症を発症せず安らかに最期を迎えた人もいたそうです。老化にともなって起こる病を根治する方法はありません。でも、亡くなるまで認知症を発症させずにいることは可能で、そのためには生活習慣が大事──その事実を明らかにした研究は、修道女(nun)にちなんで「ナン・スタディ」と呼ばれる
- アルツハイマーは、ちょっと補助をすれば普通の生活ができるんです。でも、昔のようなやる気がなくなりました
- バリデーションとは、言葉が出にくくなった認知症の人とコミュニケーションをとるための技法
- むしろ、かえって深まるものもあるのではないか──。 たとえば晋の場合は、正義感、優しさ、謙虚さ。そして信仰も深まったように、私は感じていました。
- 私がアルツハイマーになったということが、自分にとって最初は「何でだ」と思っていました。けれども私は私であることがやっとわかった。そこまでに至るまでに相当格闘したわけですけど。
- 晋と私が講演でなし得たのは、上手に話ができないことも含め、ただ「ありのまま」を見てもらうことだけでした。 ですが、それだけで「励まされた」と言ってくださる方がいて、その言葉で私たちもまた、励まされたのでした。 アルツハイマー病になっても終わりではないし、ひとりではなかった
- 南向きの部屋で寝ている彼のもとに、朝日がガラス戸越しに射す。 そのとき彼の目は、重荷をすべて下ろしたかのように澄み切って、平穏に満ちています。その幸せそうな顔を見ていると、問うこと自体が無意味にも思える
- 晋はリビングウィルに、「恩師から学んだこと」として、こう書いている。 生きることは死することであり、死することは生きることである 。もし人間がこの世だけの歩みで終わるなら、病気はただの不幸にすぎない。けれども、生命を与え、とり給う神様が私たちの歩みをご覧になっている。 愛をもって支えていてくださる。 であれば私たちは、それに応えて、たとえどんな状況におかれても、一生懸命生きる価値があるのではないだろうか
- 蝶はせまってくる死にいささかもうろたえない。自分が生まれてきた目的ははたし終わった。そして今やただひとつの目的は死ぬことにある。だから、トウモロコシの茎の上で、太陽の最後のぬくもりを浴びながら待っている