先日、”在宅介護を受けていた91歳の母親が誤嚥性肺炎で亡くなり、訪問診療を行っていた医療法人が訴えられた”という記事を読みました。
その母親は要介護5で認知症があり、体重は24キロを切るほど低下していました。さらに食べ物を飲み込む力も落ち、1回の食事に5時間かけても半分ほどしか食べられない状態だったといいます。
娘さんは、なんとか口から食べてもらい、少しでも長生きしてほしいと懸命に介護を続けていました。その思いは理解できます。
しかし、認知症専門医としてこの記事を読んで、どうしても伝えたいことがあります。それは、医療には限界があり、人間には寿命があるということです。これは冷たい言葉ではありません。どれだけ医学が進歩しても、90歳を超え、認知症が進み、食べる力そのものが失われてきた人を、いつまでも元気な状態に戻せるわけではありません。
医療の役割は、すべての死を防ぐことではありません。時には、避けられない死を受け入れ、その人が苦しまないように支えることも、重要な医療なのです。
目次
第1章 「食べられなくなる」は、治療すれば元に戻るとは限らない
高齢者、とくに認知症が進行した方では、徐々に食事量が減っていきます。家族からすると、「もっと食べさせなければ」「栄養をつければ元気になるのではないか」と思うのは自然なことです。
しかし、高齢者医療の現場では、食べられなくなることそのものが、身体の終末期を示していることがあります。年齢とともに低下するのは足腰だけではありません。噛む力、飲み込む力、咳をして気管に入ったものを外へ出す力も低下します。そして、この嚥下機能の低下は、筋力トレーニングだけで必ず元に戻るものではありません。
今回のケースでは、体重が24キロを切り、食事に5時間を要していました。この段階では、単なる「食欲不振」とは言えません。全身の生命力そのものが低下している可能性を考えなければなりません。もちろん、口から食べることは大切です。食事には、栄養だけでなく楽しみがあります。しかし、食べる力が大きく低下した人に無理に経口摂取を続ければ、誤嚥性肺炎の危険は高まります。つまり、「口から食べさせること」と「誤嚥を防ぐこと」は、時に両立しません。これが高齢者医療の現実です。
第2章 「治療すれば助かったはず」という考えには限界がある
今回の記事では、娘さんが「適切な治療を受けていれば助かったのではないか」と考え、医療法人を訴えました。裁判所は医師側の診療や記録について問題を認定しています。特に、肺炎を疑って検査や診断を行う義務、家族への説明、さらにカルテ記載の修正などについて厳しい判断が示されています。その点については、医療者側も真摯に受け止める必要があります。
しかし一方で、私たちはもう一つ考えなければなりません。それは、「治療すれば必ず死を回避できる」という発想そのものが、超高齢者医療では成り立たないということです。誤嚥性肺炎に抗菌薬を使うことはできます。点滴もできます。入院させることもできます。必要なら酸素投与も行えます。しかし、それによって一度肺炎を乗り越えたとしても、嚥下機能そのものが改善しなければ、再び誤嚥性肺炎を起こします。
次の肺炎を治療しても、またその次があります。医療は病気を治すことはできます。しかし、老化そのものを止めることはできません。そして人間には寿命があります。この当たり前のことを、現代医療は時として家族に十分伝えられていないのではないでしょうか。
「できる治療がある」と「その治療をすべきである」は同じではありません。医療をどこまでも続けることが、必ずしも患者さんの幸せにつながるとは限らないのです。
第3章 在宅医療では「どこまで治療するか」を最初に決めなければならない
私は在宅医療に関わる中で、家族と医師が最初に共有すべきことは、薬や検査の話だけではないと思っています。最も大切なのは、「この患者さんが今後悪くなった時、どこまで治療するのか」という話です。
例えば、90代で認知症が進行し、食事量が減ってきた患者さんであれば、「今後、誤嚥性肺炎を起こす可能性があります」「肺炎がきっかけで亡くなる可能性もあります」「その時に救急搬送して入院治療をするのか」「自宅でできる範囲の治療をして、苦痛を少なくすることを優先するのか」「心肺停止になった場合、蘇生処置を行うのか」こうしたことまで話しておく必要があります。
私は、ここで医療者と家族の考えが大きく違う場合、在宅医療を続けること自体が難しくなることがあると思っています。例えば、「最後まで家で過ごさせたい」「病院には入れたくない」「胃ろうや点滴はしたくない」「でも、絶対に死なせないでほしい」このすべてを同時に実現することはできません。
これは医師の努力不足ではありません。医学的に不可能なのです。だからこそ、在宅医療では家族にも、「最期が来る可能性を受け入れる覚悟」が必要になります。もちろん、家族にそんな覚悟を突然求めても無理です。だから医師が何度も説明する必要があります。「食べられなくなってきたこと自体が、身体が弱っているサインです」「次の肺炎が最後になるかもしれません」「治療しても、以前の状態には戻れない可能性があります」ここまで伝えなければなりません。
そして単に説明するだけでなく、「今の話をどのように理解されましたか」と、家族の理解を確認することまで必要だと思います。ちなみに当院では、説明内容を印刷してご家族にサインをいただくようにしています。
おわりに 死を受け入れることも医療の一部である
現代社会では、死がどんどん医療の中に隠されるようになりました。病気になれば治療する。悪くなれば救急車を呼ぶ。肺炎なら抗菌薬を使う。心臓が止まれば蘇生する。その結果、いつの間にか、「治療を続ければ、死は避けられる」という錯覚が生まれているように感じます。
しかし、そんなことはありません。91歳には91歳の身体があります。認知症が進み、食べる力が落ち、体重が減り、全身の機能が衰えていく。それは病気だけではなく、その人が人生の最終段階に入っていることを示している場合があります。医療は万能ではありません。人間も永遠には生きられません。だからこそ、医療者は患者さんや家族に、「治せる病気」と「治しても寿命そのものは変えられない状態」を区別して伝える責任があります。
そして家族にも、「どこまで治療することが、本当に本人のためなのか」を考えていただく必要があります。死について話すことは、決して冷たいことではありません。治療を諦めることでもありません。むしろ、限られた時間をどう生きるかを考えることです。私は長年、高齢者医療と認知症診療に携わってきました。そこで強く感じるのは、医療の役割は、ただ命を長くすることではない。苦痛を減らし、その人らしく生き、そしてその人らしく最期を迎えられるよう支えることも、立派な医療です。
医療にも限界があります。寿命にも限界があります。その事実から目をそらさず、患者さん、家族、医療者が一緒に話し合うことこそ、これからの在宅医療には必要なのだと思います。

認知症専門医として毎月1,000人の患者さんを外来診療する長谷川嘉哉。長年の経験と知識、最新の研究結果を元にした「認知症予防」のレポートPDFを無料で差し上げています。