【お薦め本の紹介】島田荘司『写楽 閉じた国の幻』

【お薦め本の紹介】島田荘司『写楽 閉じた国の幻』

写楽の絵は、これまでにも何度も見てきました。独特の表情、大胆な構図、一度見たら忘れられない役者の姿。浮世絵に詳しくなくても、「これは写楽だ」と分かる方は多いのではないでしょうか。ところが私は、その絵を知っているだけで、描いた人物についてはほとんど知らなかったのです。

これほどの歴史的背景があり、これほどのロマンがあり、今なお多くの謎が残されている。島田荘司さんの『写楽 閉じた国の幻』を読み、写楽という存在の奥深さに驚かされました。

読み応えのある大作です。しかし、その長さを負担に感じるどころか、先が気になって一気に読んでしまいました。そして読み終えたあとには、壮大な世界を旅してきたような満足感が残りました。今回は、私があらためて写楽の作品集を購入するきっかけになった、この一冊をご紹介します。

目次

1.有名な絵の向こうに、これほど大きな謎があった

写楽とは、いったい何者だったのか。本書を読むと、これが単なる人物当てではないことが分かります。なぜ突然、あれほど強烈な作品を世に出せたのか。なぜ活動は短期間で終わったのか。その絵を売り出した蔦屋重三郎は、何を考えていたのか。問いが一つ生まれるたびに、次の問いが現れます。

本書では、写楽が約十カ月という短い期間に、百四十点余りの作品を残したことが、謎を考える出発点になります。私にとって写楽は、漠然と「江戸時代の有名な浮世絵師」でした。それが、ほんの短い時間に強烈な光を放った存在だったとは、深く考えたこともありませんでした。

さらに面白いのは、絵そのものが推理の材料になることです。顔の描き方、手の大きさ、役者の衣装、描かれた場面。何となく眺めていれば通り過ぎてしまう細部に、次々と疑問が投げかけられます。そもそも浮世絵は版画です。絵師のほかに彫師や摺師が関わり、私たちが見る一枚が出来上がる。その制作過程までが、謎を解く鍵になっていきます。

もちろん、小説が示す大胆な仮説と、歴史的に確かめられた事実は分けて受け止める必要があります。それでも、「こんな見方ができるのか」という知的な興奮は格別でした。

2.写楽を追ううちに、江戸という時代が立ち上がる

この作品の魅力は、写楽の正体だけにあるのではありません。蔦屋重三郎をはじめ、歌麿、北斎、山東京伝、平賀源内といった人々の名前が、時代の空気とともに浮かび上がってきます。教科書では別々に覚えていた人物たちが、出版や芝居、商売、人づきあいを通じて結びついていく。それだけでも、江戸の見え方が変わります。

特に心に残ったのは、作中に描かれる蔦屋重三郎の姿です。才能を見つけ、世の中に送り出す。しかし、面白いものを作れば、それだけで自由に売れるわけではありません。政治の方針や取締りが、書き手や出版人の仕事を左右する。庶民の楽しみを支える商売も、時代の大きな力から逃れられないのです。正しさや倹約を求めることが、人々の暮らしから楽しみや余裕まで奪ってしまう。そんな作中の描写には、現代にも通じる息苦しさを感じました。

また、権威を振りかざす人への反発や、自分の正しさを疑わず相手を責める態度への批判にも、考えさせられました。規則を守ることは大切です。しかし、相手の事情を聞かず、正論だけで追い詰めてよいわけではありません。写楽の絵をめぐる物語を読んでいるはずなのに、いつの間にか、人が生きる社会そのものについて考えている。この広がりが、大作でありながら読者を離さない理由の一つだと思います。


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3.読み終えて、もう一度あの絵を見たくなった

読後、私はあらためて写楽の作品集を購入しました。小説を読んで満足するだけでは足りず、自分の目でもう一度、絵を確かめたくなったのです。

以前なら、「ずいぶん特徴のある顔だな」で終わっていたかもしれません。ところが今は、役者の表情や指先、身体の構えに目が向きます。なぜこの瞬間を選んだのだろう。何を見て、何に驚き、どうしてこの姿を描きたくなったのだろう。そんなことを想像しながら眺めています。

特に印象に残っていたのが、写楽の絵を、動きの一瞬を捉えようとした表現として読み解く部分です。そう考えて見ると、大胆な表情や構図が、単なる誇張とは違って感じられます。舞台で生きている人間の迫力を、一枚に閉じ込めようとしたのかもしれない。絵を見るこちらの気持ちまで動きます。

知識が増えると、鑑賞は堅苦しくなると思う方もいるかもしれません。しかし今回は逆でした。背景を知ったことで、絵との距離が近くなりました。「有名だから見る」から、「もっと知りたいから見る」へ。その変化をもたらしてくれたことが、この本から得た大きな喜びです。

終わりに

『写楽 閉じた国の幻』は、私にとって、読み終わったところから次の楽しみが始まる本でした。謎を追う面白さ、江戸の文化に触れる楽しさ、そして物語を読み切ったあとの深い満足感。そのうえで、以前にも見た絵を、もう一度じっくり眺めたくなるのです。

知っているつもりで、実は知らなかった。見ていたつもりで、まだ見えていなかった。写楽の絵に見覚えのある方にこそ、お薦めしたい一冊です。読み終えたあとには、あの見慣れた役者の顔が、少し違って見えてくるかもしれません。

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