テレビや新聞で歯科医療に関する話題が出ると、決まり文句のように使われる表現があります。「歯科医院はコンビニより多い」。皆さんも一度は耳にしたことがあるでしょう。確かに数字だけを見ればその通りです。しかし私はこの言葉を聞くたびに、少し違和感を覚えます。
なぜなら、この表現はあたかも「歯科医院が異常に多い」ことを示しているかのように使われていますが、実際にはそうではないからです。そもそも日本では、過去において歯科医院の数がコンビニより少なくなったことは一度もありません。つまり、「歯科医院はコンビニより多い」という事実は、今に始まったことではなく、昔からずっとそうだったのです。
それにもかかわらず、この言葉だけが繰り返される。私はそこに、日本社会が陥りがちな「考えることをやめた言葉」の危うさを感じています。
目次
第1章 比較の基準がおかしい
物事を比較する時には、「何を伝えたいのか」が重要です。例えば、「富士山は高い」ということを説明するために、「富士山は名古屋城より高い」と言ったらどうでしょう。確かに事実ですが、高さを説明する比較としては意味がありません。
同じように、「歯科医院はコンビニより多い」という表現も、実は歯科医院の多さを説明しているようで説明になっていません。なぜなら、比較対象であるコンビニの数が基準として適切かどうかが全く検討されていないからです。
しかも、歯科医院は昔からコンビニより多かったのです。つまり、「コンビニより多い」という状態自体にニュース性はありません。本来ニュースになるのは、「コンビニが歯科医院を追い越した」時です。
その時初めて、「長年続いてきた状況が変化した」という意味を持ちます。ところが現実には、変化していないことを何十年も繰り返し報道しているのです。これは冷静に考えると、かなり不思議な現象です。
第2章 言葉だけが独り歩きする怖さ
なぜこのような表現が定着したのでしょうか。理由は簡単です。分かりやすいからです。コンビニは誰でも知っています。街中のいたる所にあります。だから、「歯科医院はコンビニより多い」と言われると、「そんなに多いのか」という印象を持ちやすいのです。
しかし、その瞬間に思考は止まります。本当に多いのか。昔はどうだったのか。なぜそうなったのか。そうした本質的な問いが消えてしまうのです。
私は医療の世界でも同じことを感じます。認知症にしても、「物忘れ=認知症」という単純化された表現が独り歩きします。本来は、加齢による物忘れなのか、軽度認知障害なのか、アルツハイマー病なのか、脳血管障害なのか、丁寧な評価が必要です。
しかし、人は分かりやすい言葉に飛びつきます。そして、その言葉を疑わなくなります。「歯科医院はコンビニより多い」という表現も、実は同じ構造なのです。
第3章 大切なのは数字の背景を考えること
もし本当に歯科医療の現状を伝えたいのであれば、見るべきは別の数字です。例えば、子どもの虫歯の減少。フッ素の普及。予防歯科の進展。高齢者の残存歯数の増加。訪問歯科診療の拡大。こうした数字の方が、はるかに社会の変化を表しています。
実際、日本人の歯の状態は大きく改善しています。かつては「年を取ったら入れ歯は当たり前」でした。しかし現在では80歳で20本以上の歯を持つ人が珍しくありません。
歯科医療は、「削る医療」から「守る医療」へと変わりつつあります。本当に注目すべきなのは、こうした変化です。ところが、「歯科医院はコンビニより多い」という言葉ばかりが繰り返されると、人々の関心は表面的な数字に向いてしまいます。
数字は大切です。しかし、もっと大切なのは数字の背景です。その数字が何を意味するのか。なぜそうなったのか。そこまで考えて初めて、本当の理解につながるのだと思います。
終わりに
私は年齢を重ねるにつれて、言葉の怖さを感じるようになりました。人は短い言葉に安心します。分かりやすい表現を好みます。しかし、分かりやすい言葉ほど注意が必要です。「歯科医院はコンビニより多い」という表現も、その代表例かもしれません。事実ではあります。しかし、その事実だけを繰り返しても、本質は見えてきません。
むしろ、「昔からそうだった」という前提を知れば、その言葉の意味は大きく変わります。私たちは数字を見るだけでなく、その背景を考える習慣を持ちたいものです。ニュースを聞いた時も、記事を読んだ時も、「本当にそうなのか」「それは昔からなのか」「何が変わったのか」と一歩踏み込んで考える。
その積み重ねが、情報に振り回されない知性につながるのではないでしょうか。そして私は今日も、「歯科医院はコンビニより多い」という言葉を聞くたびに思うのです。ニュースになるのは、歯科医院がコンビニより多いことではありません。もしコンビニが歯科医院を追い越したなら、その時こそ本当のニュースなのだと。

認知症専門医として毎月1,000人の患者さんを外来診療する長谷川嘉哉。長年の経験と知識、最新の研究結果を元にした「認知症予防」のレポートPDFを無料で差し上げています。