バター醤油ご飯、たらこパスタ、ラーメン、カトルカール――作中に登場する料理はどれも濃厚で、油と塩気と欲望に満ちています。しかし読後に残るのは、「美味しそう」という感想だけではありません。
「なぜ人は食べるのか」
「なぜ人は他人を求めるのか」
「なぜ女性は“ちゃんとしていること”を求められるのか」
そんな問いが、胃の底に重く沈んでいく作品でした。
目次
第一章 バターは“欲望”の象徴だった
この作品の中心には、梶井真奈子という圧倒的な存在感を持つ女性がいます。
彼女は料理を通して人を支配し、魅了し、ときに破滅へ導く。印象的だったのは、彼女の言葉です。「食べたいものを自分で作って好きなように食べる。これを豊かさと呼ぶのではないか。」
この一文には、この小説の核心が詰まっているように感じました。現代社会では、「健康的」「低脂肪」「痩せていること」が正義になりすぎています。
特に女性は、「食べ過ぎないこと」「自己管理ができること」を無意識に要求されている。
作中でも、「ダイエットほど無意味でくだらなく、知性とかけはなれた行為はありません」という極端なセリフが登場します。
もちろん暴論です。しかし、この“極端さ”こそが、この作品の魅力でもあります。梶井真奈子は、「欲望を抑えること」を美徳とする社会に対して、真っ向から反逆しているのです。バターは単なる食品ではありません。濃厚で、脂っこく、背徳的で、人を堕落させるもの。つまり、人間の本能そのものの象徴なのだと思いました。
第二章 「ちゃんと暮らす」ということの意味
この小説を読んでいて、私は何度も「介護の現場」を思い出しました。作中にはこんな言葉があります。「ちゃんと暮らしてくれないのって、暴力だと思うんですよね」
さらに、「自分を粗末にすることは、誰かに怒りをぶつけていることだと思うから。」
という表現もあります。これは非常に深い言葉だと思いました。
高齢者医療の現場でも、「食べなくなる」「片付けなくなる」「風呂に入らなくなる」という変化は、単なる生活習慣の乱れではありません。その背景には、孤独、喪失感、自尊心の低下があります。作中の男性たちも、生活が崩れている。誰かに食事を作ってほしい。誰かに世話をしてほしい。誰かに認めてほしい。
つまり彼らが求めていたのは、料理ではなく“存在承認”だったのかもしれません。現代社会では、「自立」が美徳として語られます。しかし本当は、人は誰かに温めてもらわなければ生きていけない。
温かい味噌汁。
炊きたてのご飯。
誰かと囲む食卓。
それらは単なる栄養ではなく、「あなたはここにいていい」というメッセージなのだと思います。
第三章 この小説が怖いのは、“共感”してしまうから
この作品の恐ろしさは、梶井真奈子を完全には否定できない点にあります。彼女は極端です。危うい。支配的で、ナルシスティックで、ときに残酷です。しかし彼女の言葉には、不思議な説得力がある。
例えば、「その時、一番食べたいと思うものを好きなだけ食べるのよ。」という言葉。
これは単なる食欲の話ではないのでしょう。
「自分の本音を無視するな」
「他人の評価だけで生きるな」
というメッセージに聞こえます。
現代人は、“正解”ばかり探しています。
健康にいいもの。
嫌われない生き方。
炎上しない発言。
効率の良い人生。
しかし、その結果として、自分が本当に何を食べたいのか、何を望んでいるのかすらわからなくなっている。だからこの作品は刺さるのだと思います。また、作中では「努力」と「苦しさ」が混同されている社会への違和感も語られます。「辛い人が一番偉い世の中になっちゃったりして。」
これは現代日本への鋭い批評でしょう。
我慢している人ほど立派。
疲れている人ほど頑張っている。
楽しそうに生きている人にはどこか罪悪感を抱く。
そんな空気が、確かに私たちの社会にはあります。梶井真奈子は、その空気をバターで焼き払っていく存在なのかもしれません。
終わりに
『BUTTER』は、読後に「何を感じるか」で評価が変わる小説だと思います。
グルメ小説として読む人もいるでしょう。女性論として読む人もいる。あるいは、人間の孤独を描いた作品だと感じる人もいる。私は、「人は何によって生かされているのか」を問う小説だと感じました。
栄養だけならサプリメントで足ります。しかし、人はそれだけでは生きられない。誰かと食べる。誰かのために作る。自分のために丁寧に料理する。その行為の中に、人間らしさがある。
そして本当に怖いのは、梶井真奈子ではなく、「欲望を失い、何を食べたいかもわからなくなった社会」のほうなのかもしれません。

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